☆
室長は、怒り狂っていなかった。
ド平民の景子に、いきなり額を触られ、席を立ってみろとまで言われたにも関わらず、彼は貴族としての反応を一切しなかったのだ。
いや。
出来なかったに違いない。
「何を…」
冷たい声が──ついに止まった。
その細い身体が、一度震える。
立てないことに、ようやく気付いたのだろうか。
「ネイディ、農林府の荷馬車を借りてきて!」
唯一助けてくれそうな男の名を、景子は呼んだ。
普段、下っ端として使われ慣れているネイディは、強い言葉のせいか反射的に席を立った。
自分より、景子の身分が下であるということを把握しているにも関わらず、彼は荷馬車を確保してくれたのだ。
ようやく、他の職員の手も借りて、室長を荷馬車に積みこむ頃には、もはや彼は身動きも取れないほどになっていた。
「家、分かる?」
景子がネイディに確認すると、その迫力に気おされてか、コクコクと頷く。
彼は御者の横で道案内することになり、景子は荷馬車に乗り込んだ。
光の爆ぜる上司の青い顔を見ながら、昔を思い出していた。
助けられたかもしれないのに。
彼女は、自分の能力の奇異さを人に知られたくなくて、気づかないふりをしたのだ。
お葬式の手伝いに部下として行った時、景子は自分のしたことの代償が、一体何だったのかを知った。
黒いリボンの写真。
泣き狂う奥さんと子供たち。
会社は過労死で訴えられ、社内もボロボロになっていった。
皆が、亡くなった彼の話を避けるようになり、景子もまた、少しずつ弱っていったのだ。
立ち直るのに、長い長い時間が必要だった。
あの時は、自信もなかった。
本当に、彼が具合が悪いのかどうか、確信が持てなかったのだ。
だが、今度は違う。
まだ、手遅れじゃないかもしれない。
だから。
景子は、席から立ったのだ。
ロジューが、言ったではないか──磨かない能力など、ただの芸だと。
室長は、怒り狂っていなかった。
ド平民の景子に、いきなり額を触られ、席を立ってみろとまで言われたにも関わらず、彼は貴族としての反応を一切しなかったのだ。
いや。
出来なかったに違いない。
「何を…」
冷たい声が──ついに止まった。
その細い身体が、一度震える。
立てないことに、ようやく気付いたのだろうか。
「ネイディ、農林府の荷馬車を借りてきて!」
唯一助けてくれそうな男の名を、景子は呼んだ。
普段、下っ端として使われ慣れているネイディは、強い言葉のせいか反射的に席を立った。
自分より、景子の身分が下であるということを把握しているにも関わらず、彼は荷馬車を確保してくれたのだ。
ようやく、他の職員の手も借りて、室長を荷馬車に積みこむ頃には、もはや彼は身動きも取れないほどになっていた。
「家、分かる?」
景子がネイディに確認すると、その迫力に気おされてか、コクコクと頷く。
彼は御者の横で道案内することになり、景子は荷馬車に乗り込んだ。
光の爆ぜる上司の青い顔を見ながら、昔を思い出していた。
助けられたかもしれないのに。
彼女は、自分の能力の奇異さを人に知られたくなくて、気づかないふりをしたのだ。
お葬式の手伝いに部下として行った時、景子は自分のしたことの代償が、一体何だったのかを知った。
黒いリボンの写真。
泣き狂う奥さんと子供たち。
会社は過労死で訴えられ、社内もボロボロになっていった。
皆が、亡くなった彼の話を避けるようになり、景子もまた、少しずつ弱っていったのだ。
立ち直るのに、長い長い時間が必要だった。
あの時は、自信もなかった。
本当に、彼が具合が悪いのかどうか、確信が持てなかったのだ。
だが、今度は違う。
まだ、手遅れじゃないかもしれない。
だから。
景子は、席から立ったのだ。
ロジューが、言ったではないか──磨かない能力など、ただの芸だと。


