アリスズ


 室長は、怒り狂っていなかった。

 ド平民の景子に、いきなり額を触られ、席を立ってみろとまで言われたにも関わらず、彼は貴族としての反応を一切しなかったのだ。

 いや。

 出来なかったに違いない。

「何を…」

 冷たい声が──ついに止まった。

 その細い身体が、一度震える。

 立てないことに、ようやく気付いたのだろうか。

「ネイディ、農林府の荷馬車を借りてきて!」

 唯一助けてくれそうな男の名を、景子は呼んだ。

 普段、下っ端として使われ慣れているネイディは、強い言葉のせいか反射的に席を立った。

 自分より、景子の身分が下であるということを把握しているにも関わらず、彼は荷馬車を確保してくれたのだ。

 ようやく、他の職員の手も借りて、室長を荷馬車に積みこむ頃には、もはや彼は身動きも取れないほどになっていた。

「家、分かる?」

 景子がネイディに確認すると、その迫力に気おされてか、コクコクと頷く。

 彼は御者の横で道案内することになり、景子は荷馬車に乗り込んだ。

 光の爆ぜる上司の青い顔を見ながら、昔を思い出していた。

 助けられたかもしれないのに。

 彼女は、自分の能力の奇異さを人に知られたくなくて、気づかないふりをしたのだ。

 お葬式の手伝いに部下として行った時、景子は自分のしたことの代償が、一体何だったのかを知った。

 黒いリボンの写真。

 泣き狂う奥さんと子供たち。

 会社は過労死で訴えられ、社内もボロボロになっていった。

 皆が、亡くなった彼の話を避けるようになり、景子もまた、少しずつ弱っていったのだ。

 立ち直るのに、長い長い時間が必要だった。

 あの時は、自信もなかった。

 本当に、彼が具合が悪いのかどうか、確信が持てなかったのだ。

 だが、今度は違う。

 まだ、手遅れじゃないかもしれない。

 だから。

 景子は、席から立ったのだ。

 ロジューが、言ったではないか──磨かない能力など、ただの芸だと。