猫だ。
上質のビロードのような美しい毛並みの真っ黒な子猫が、足下に『ちょこん』と座って茜を見上げている。
額に入った白いワンポイントは、何となく文字のように見えた。
上目遣いに茜を見詰める金色の大きな瞳も、つぶらで愛らしい。
可愛い子猫だ。
こんな場所でなければ動物好きな茜は、間違いなく抱え上げて頬ずりするだろう。
だが、場所が場所だ。
いや、それ以前に、この子猫は『茜に話しかけた』のだ。
ごくりと唾を飲み込み、茜はそそくさと身支度をして立ち上がった。
「おい何じゃ、無視するのか、おぬし?」
聞こえない。
何も聞こえない。
黒い子猫が可愛らしいハイトーンの声で『おじいさん言葉』を使ってで自分に話しかけるのを、茜は気づかない振りを決め込む事にした。
触らぬ神に祟りなし。
茜は水を流すと、駆け出したくなる衝動をこらえてトイレの個室を出た。
が、やはりあまりのことに慌てているためか、足がもつれそうになる。
さっと形ばかり手を洗い、今度は敬悟の待つ車まで一目散に駆けだした。



