「このチャリ、母の形見なんだ」

自転車をこぎながら、ヒトシは独り言のように言った。

「母はね。僕が二十歳の時に、家を出たんだ」

「生きてるのに形見?」

「よくわからない宗教にはまって出家してしまったんだ。死んだようなものだよ」

「宗教?」

「母は現世を捨てたんだ。僕と父も含めてね」

「そうだったんですか」

「今はどこで何をしているかもわからないよ」

ヒトシの背中が、淋しそうに見えた。


「母はね」

ヒトシは続けた。

「母はね、自分の自転車があるのに、僕のマウンテンバイクに乗って、家を出て行ったんだ」


「マウンテンバイク!?」

「当時流行ってたんだよ。十万近くする、結構良いのを持っててね」

「どうして自分の自転車で行かなかったんでしょう」

「さあね。何はともあれ、うちに残った唯一の母の持ち物がこのチャリだったんだ」