荒々しく閉じられた扉に鍵を掛ける音がしたと思えば、俺は一人部屋に取り残されていた。

ギシリ。少し身じろいだだけで骨が軋む。
身体の中心、心臓の辺りから高温の熱が放出されて、どうにもだるい。
痛みを伴う熱は、全身の感覚を麻痺させていた。それでも剥き出しだったはずの傷口には清潔な包帯が巻かれているし、垂れ流しだった筈の血液や体液は拭われている。

(――あの女……)

記憶にない。知り合いでもない。

(せめてベッドに寝かせられてりゃ、感謝くらいしたかもな)

考えて、確かに厚かましい男だと我ながら呆れたが、無人のベッドが傍らにあるというのに床に寝ている自分があまりにも滑稽に思えるのだ。
やることもなく、今の視線では随分と上のほうにある窓へと視線だけ投げる。

サァァアアア…。

――まだ、雨か。
格子のガラス窓一枚隔てた向こうから響く繊細な騒音は、孤独を彩るようにささやかに流れている。
以前は嫌いでも好きでもなかった雨だが、死ぬ寸前まで凍えさせられた事を思い出し憎まずにはいられない。
あの仰向けに見た狭い空に、未だ生気ある傷が疼く。

『――失望させてくれるな』

言いながら、なんの躊躇いもなく俺を撲りつけた男の顔がぐにゃりと歪む。

(あいつお得意の拷問にまんまと引っかかった俺も馬鹿だな)

知っていて、油断した。
長年の付き合いの馴れ合いに無様に浸かり裏切られて、死ぬ気で逃げた自分が滑稽で笑える。

(死んで、ねぇのか……)

こうして生死について考えていることすら幻想ではないかと、疑ってしまうほどの致死の傷を負っていた筈なのに。

(まともに生きていけるわけがない)

血に濡れ続けるのは、宿命なのだと云う。

(……知るか、俺は)

違う道を往く。


――ふと、窓枠前のソファに投げ捨てられた赤黒い物体に目がいった。
それなりに良いものであるらしいそれは、乳牛の模様のように、赤の斑に染まっていた。

「あぁ」

だから『くたばれ』、か。
どうやら女のコートは俺の血を吸って使い物にならなくなったらしい。
見れば、下に敷かれた絨毯も同様に、救いようもないほど血が染みていた。

(……誰がくたばるかよ)

赤黒いコート。
あれが全て自分の血だということに嫌悪すら抱く。血の匂いにも視界を潰す色にも、慣れていた筈なのに。
自分自身の死という概念に、本能的に、怯えた。

――事実、死んだと思っていたのに。

「……っ」

呼吸がしずらい。
喉が酸素で焼かれているようにも感じられる。

「……クソ」

ままならぬ我が身がここまで煩わしいとは。
熱にいたぶられながら、そのまま意識の底に墜ちた。











「首、痛い」

パソコンに向かいながら、左手で自分の首筋をさする。
今朝は朝から仕事に身が入らない。

帰ってドアを開けて死んでたら、とか。
本当の死体になっていたら、警察には届けず遺棄しよう、とか。死体の処理の仕方をネットで検索しなくては、とか。
死体遺棄罪で、近い将来捕まることになったらどうしよう、とか。

パソコンに並ぶ仕事の英文は、今の私の目には蟻の行列程度にしか見えていない。
まあ、なんだ、そんな状態でノルマが終わるわけもなく。

「リナ、お前は今日も残業だ」

白豚さながら、肥えた髭面の上司が憎らしい。

「……ヤー、ボス」

今日もピアノ教室には行けないわけだ。
とんだ拾い物をした、と深く溜め息を吐く。
雨は降り続ける。

煙草は不味い。

最悪だ。


―――雨。
毎日毎日爆発しそうに熱い摩天楼は、雨が降ると少しだけその熱を冷まされる。

「リナ、これ見て。新作」

隣のデスクに座る、過度な妄想癖の同僚は、今日も妄想に夢中になっての残業らしい。
彼女は毎回会社のパソコンを私用に使い仕事をサボる…要するにクビ確定要員。
鬱陶しい。眉間に皺が寄る。
こっちはノルマを終わらせて早く帰りたいってのに、同僚はお構いなしに話しかけてくる。
彼女の持論を無視しながら、私は最後のキーを乱暴に叩き古いだけのオフィスと同僚を後にした。

あぁ、死んでいませんように。

困る。困るのよ。
あの生意気で綺麗な生物が死体になっていたら、私の人生は終わりだ。
私は地下鉄に乗り込んで、珍しく空いていた席に急いで腰を下ろした。
薄暗い地下鉄の車内は、酷く憂鬱になる。残業の後だと、特に。

(晩飯、どうしよう)

買い物しなきゃ、冷蔵庫の中は空っぽだ。
アパートメント近くにあるマーケットで、牛乳や卵、ベーコンやら果物やらを籠に入れながら、ふと足を止める。
怪我人の食事。
どうしたものか。
視線を巡らせていると、カラフルなパッケージが目についた。いいアイデアだ。



――ガチャリ。
極力音を立てないよう部屋のドアを開け、キッチンに買い物袋を置いた足で寝室へ。
ミイラが息絶えていない事だけを祈りながら。

「……よぉ」

私が最後に見た姿のまま、金色の怪我人が私を見た。

「起きてたの」

てっきり、死んではいなくとも気絶しているものだと思ってばかりいた。

「……痛くて寝れねぇ」

霞み枯れた声が悔しそうに響く。
難儀なものだ。

「お気の毒」

それならスープも食べられなかったのだろう。
キッチンに引き返し鍋を覗けば、案の定。

「お、い」

寝室からの偉そうな声に、私は不機嫌を隠さず返す。

「なに」
「水、くれ」

朝、男の脇に置いておいたミネラルウォーターのボトルは空になって転がっていた。
ボトルを握って飲むことはできたわけだ。思ったよりも傷は浅いのか。
新しいボトルを手に、男の上体を支え起こす。

熱い。

「熱が上がったね」

傷が膿まなきゃいいけど。
相変わらず男の唇は震えて、私はまた口移しで水を与える。

「……ヤニくせぇ、」
「血生臭いよりマシ」

べろり。
唇の傷を舐めると、ミイラ男は金髪を揺らして呻いた。
綺麗な眼が、私を睨む。

あぁ、まずい。そそられてしまう。

「……こ、の、クソ女」
「うるさい」

悪態返しに咥内の傷も舐めてやると舌を噛まれた。
故意に、というより痛みに震えた歯が当たった、という程度だったけれど。

「クソ女じゃなくて、リナ。放り出されたいの?」

私が言うと、男は呼吸をし損ねたような笑いを吐き出した。

「生かしといて、今度は殺すのかよ……」

――さぁね。
男の言葉に、私は肩を竦めるしかない。
突発的に助けてしまったとはいえ、その後どうするかなんて考えてもいない。

「あんた、名前は?」

無言だ。

「言いたくないならいいけど」

名前も名乗れないのだとしたら、やはり何かしら厄介事を抱えてるらしい。
この街じゃ、そう珍しくもなかった。
警察にも、病院にさえ世話になりたくないなんて、一体なにをしでかしたのか。

(……とんだ拾い物だな)

舌打ちがでた。