「おい」

溜め息を噛み殺す。
荒くなった息を整えて、下に組み敷いたリナが動かないことに気付いた。
上体を起こして頬を叩くが、反応がない。
湯なのか汗なのか、濡れそぼった頬を舐めるとしょっぱかった。

「……馬鹿女」

寝息を立てるリナの体を拭いてやり、ベッドへと運ぶ。
見れば、リナの体は無惨なほど傷だらけで、あれほど他人に付けるのを避けていた鬱血の塊、そして引っ掻き傷が、体中を病的なまでに這っている。

「病気だな」

リナにシーツを掛け、その隣に横になる。
あの時は出来なかったが、今はこいつを抱いて寝ることができる。
馬鹿らしいほど、こいつにそんな事をしてやれることが嬉しい。

こいつとはもう逢わない。
決めた事だ。
今までまともな生活をしてこなかった分、俺を恨む人間は腐るほどいる。
親しくなりすぎれば、リナが危険な目に遭うのは必然。

(今でももう充分、俺のアキレス腱になっちまってるのに)



「……グラム?」

引き留められて、無理だと言い、それでも。

「起きたかよ」

横になりながらこちらを見たリナの髪を撫でる。
ゆるゆるそれを繰り返せば。

「……優しくて気持ち悪い」

俺を訝しむリナに、やはりこういう顔の方がこいつらしいと妙に感慨深くなって。

「煙草……」

そう言って、ベッド脇に延びる腕を掴み抱き寄せた。
ガリガリに痩せた体はあまりに頼りなくて、胸が痛くなる。

「煙草」

腕の中で不平を漏らすリナの頬を抓りながら。

「止めろよ、煙草」
「やだよ……」

不満を露にした顔に、苦笑しつつ立ち上がった。

「水、持ってきてやる」
「どぉも」

ベッドから降りた俺の指にリナの指が不意に絡んで軽く引く。
子供のような仕草に、思わず握られた指をそのままに振り向いた。

「なんだよ」
「……別に」
「離せよ」
「……ごめん」

そう言って、人差し指を絡めたままだったリナの指が離れる。名残惜しげに。
このバカ女。

「戻ってくる」

横になったままこちらを見上げているリナの髪を乱暴に撫で付けた。
あぁ、その顔はやめろ。
離れたくなくなるんだ、バカ。

「グラム」
「んだよ」

冷蔵庫からミネラルウォーターとビールを取り出しながら答えれば。

「ビール、有料だからね」

今まさにタブを開けた瞬間、掛けられた言葉に俺は舌を出した。
ベッドに潜り込み、リナの髪を宥めるように撫でて。

「オマエとやった後に飲むのが好きなんだよ」
「バカじゃないの」

俯せになったリナが俺の腹に頭を乗せる。
長い髪が皮膚を撫でて擽ったい。

「あのさ」

黒縁の眼が窓に視線を投げたまま、小さく囁いた。
乾いていない黒髪を撫でながら少し湿った煙草に火を点ける。くゆる紫煙は足場を無くし、空中を漂うしかない道化だ。

「……なんでもない」

あとどれくらい、いられる?

口にするつもりはなかったんだろう。
虫の音ほどの小さな声は、幸か不幸か俺の耳に届いた。

「リナ」

それを聞かなかったふりをして、俺の腹に広がるリナの髪を掌で包み込んだ。

「ん……?」

喋る度に唇から漏れる息がわざわざ俺の熱を煽るように両手を広げ誘っているのか。

「こっち向け」

俺に旋毛を向けたままのリナを引き寄せるようにして髪を引く。

「やだよ」

俺の言葉を拒否するように、リナは俺の腹に顔を埋めた。
鼻先がすんと鳴いて、俺のすべてを覚えておこうとするような、仕草。

――馬鹿な女。


「……ピアノ、弾けよ」

強引にリナの脇腹に手を通し、向き合う形になっても、やはり不機嫌に眉を寄せたままリナは俺を睨んできた。
その顔でいろよ、オマエらしいから。

「いやだ」
「いいから、ほら」

不機嫌極まりないと言うリナの額と自分のものを合わせ、宥めるように抱き締めた。
お前がこれに弱いの、俺は知ってるんだぞ。

「いや」
「弾けって」

これでサヨナラだってのに、素直に言うことくらい聞いたらどうだこのバカ女。

「……そんな最後のお願いみたいなもん、絶対聞かないから」

――あぁ、そういう事。
つい吹き出した俺の横っ面に、張り手が飛んだ。

「ってぇな」
「うるさい」

恥ずかしさからか、下を向いたリナの耳に唇を寄せる。

頼むから。

「聴かせろよ……」

最期なんだから。とは、さすがに口に出来なかった。
耳に当てられた唇から距離を取るように、リナが俺を見る。

「リナ」

懇願はガラじゃないんだ。
頼むから、言うこと聞けよ。

「あの曲……?」

迷子みたいな声で問う。
なぁ、リナ、俺はお前になにもしてやれないままか。

「あの曲しかいらねぇよ」

俺がそう言うと、リナは困ったような、泣きだしそうな顔で、笑った。

……泣きたかったのかもしれない。


「一回しか弾かないから、耳かっぽじってよく聴いてなよ」

鍵盤に手を置きながら、リナが怒ったように言い放つ。
そんなリナの背中を見ながら、思わず苦笑した。

「リナぁ」
「……なに」
「弾いたら、もっかいヤろうぜ」

俺の言葉に、リナは吹き出した。

「言ってろ」

笑いながら吐き捨てて、リナが指に力を込める。
酷くゆったりとした、失ってからずっと焦がれていた曲調が耳を撫でた。
組織に戻ってからも無意識に口笛で吹いたりなんかして、馬鹿馬鹿しい事この上ないが。
ピアノを弾くリナの肩が震えている。

「……グラム」

返事はしないまま。震えるリナの言葉を待った。

「私、さ」

曲調は全く歪まないのに、ピアノを弾くその姿が酷く歪んで見える理由を俺は知っている。

今すぐ駆け寄って抱き締めて。








「私、」

――馬鹿らしい。
こんなこと口にした所で何も変わらないのに。
寧ろ、痛みを深めるだけなのに。
それなのに、喉をせり上がってくる嗚咽と言葉は堰き止められなかった。

グラム、グラム、ねぇ、私ね。

「私、あんたに殺されてもいいくらい、あんたが好きだよ」

ただもう、最期とか終わりとか、考える頭すらない。

あんたが愛しい――、グラム。



「……っ」

肩を掴まれたかと思えば、思い切り背後に引きずり込まれた。
椅子からズレ落ち床にへたり込む形で、上体をグラムに覆われている。
背中にまわる腕が、痛い。

「グラム……」

やめてよ。
こんな縋るような抱擁、いらないのに。

――私は。


「……っ、ぁ」

醜く泣きたくなんかなかった。
子供みたいに、あんたを引き留めるように、気を引くように泣きじゃくりたくなんて。

「リナ」

首筋に埋められたグラムの顔が熱い。
押し当てられた唇は歪んでる。

私の名前を、呼び続けて。

こんなの、茶番だ。
逢わないと、決めただけのことで。
二度と逢わないようにと、神に強要されたわけじゃないのに。
互いに縋りあって泣くくらいなら、離れなきゃいい。

――離れなきゃ、いいのに。

吸い慣れた煙草の香りがグラムから漂う。
同じ香りを纏うのに、距離なんか微塵もない。

あぁ、酷い――。

しゃくり上げながら抱かれた。
言葉を交わす余裕もなくて、私は泣くという行為に震えながら必死になってグラムを抱いて。
涙がからからになって頬に張り付いた頃、繋がった。
快楽を貪る中で、妙に冷静に、抱かれている自分を見つめている自分がいる。

滑稽だよ、リナ。
振り回されてボロボロになって、それでも必死に目の端に映る金色に手を伸ばして。
伸ばす度に、その手に絡み取られて。

このまま奪ってくれればいい。

こんな体、いらない。

あんたを感じられない体なんて。

くるしい。


「……っ」

同じに、融け合っているのに。

あぁ、なんて、遠い。








――寝坊した。

窓の外は久々に晴れていて、窓から注ぐ陽光に私は叩き起こされたのだ。

グラムはもう隣りにはいなかった。
泣いたまま眠ったせいか瞼が重い。

「グラム」

昨夜あれだけ呼び続けた名が、今や錆び付いた気配がする。
呟いて、口の中の苦みに気がついた。

――煙草。

(吸ったっけ……)

濃厚な苦みが、咥内に沈殿している。
昨夜の記憶を巡り、答えに、行き着いて。

あぁ、グラム。
最期のキスを落としていったのか。
吸うなと言っておきながら、毒煙を吐き出していくとは。
奴らしいと言えば、奴らしい。
考えて、口元に勝手に笑みが浮かんだ。

「晴れたな……」

外界に広がる狭い空は眼が痛むほど青い。

――だからだ。
視界が滲むのは、久しぶりに見た青空が染みたにすぎない。

そうして涙を堪えようと下を向いた私の目に酷い物が映った。
見下ろした私の体はまるでレイプされた後みたいに惨たらしい。
引っ掻き傷は蚯蚓腫れになり、キスマークは赤黒い痣のように存在を誇示していて、歯や爪に裂かれたような傷まである。未だ濡れる下肢すら、惨いものの名残りのように思えた。

(――あぁ、グラムがいたんだ……)

ちゃんと、いた。
隣に、いてくれたのだ。
ちゃんと、残していってくれた。

手首に残された、奴が言うには所有印に、私は唇を重ねる。
今や去ってしまった金色の猫の爪痕を濃くするように、上から重ねて痕をつけた。

いつかは、消えるだろうが。

(悪足掻きくらいはさせて、グラム……)

この醜い体には相応しくない穏やかな青空に、私は目を細めた。

あぁ、朝が巡ってきたのだ。

一度は確かに終えた世界は再び再生を開始する。



「バイバイ、グラム」

あんたがいた世界はもう終わり。
あんたと会う前の生活に戻るだけだ。

――それだけ。
痛みはただただ、胸に溜まってしまうけれど。


バイバイ、グラム。

溢れた涙に溺れ、そうして今日もあなたの夢を見る。
明日も、明後日も、きっと一年後もそのあとも。

そうして、毎日、私の世界は終わる。








[完]今日、世界は終わるのだ