ビ――ッ。

ふたりして無言のまま、果たしてどれほどの時間が過ぎたのか。
そうこうしているうちに、来客を示す間抜けなブザーが鳴った。

その音に我に返る。
バカ。浸るのは独りになってからでいい。
傍に居てくれる時に、考えても仕方のないいずれ訪れる別れを恐れるなんて、非生産的だ。

「ハジ……?」

グラムに抱き起こされながら、玄関の方に目をやる。

「だろうな。パトカーの音したろ?」
「……したっけ」

やだ、全然気付かなかった。
床に転がる物体を踏まないよう気を付けながら、緩慢な動きで玄関へと向かう。
ちらりと視線を流すと、床に赤黒い液体が広がっているのが見えた。

(また血か、)

ここ数日間でかなり血生臭くなった場所だが、誰一人として死んでないところがミソかもしれない。

「あ」

キッチンで転がる隣人に気付き、グラムとキスなんかしてる場合じゃなかったと酷く後悔する。

「グラム、ドア開けて」

私が倒れている隣人に方向転換したのを見て、後ろに付いてきていたグラムが玄関へと向かう。
わざわざドア横にあるキッチンの灯りを点けてから、覗き穴を覗いてドアを開けた。
隣人の俯せの体勢をなんとか仰向けにした私は、そちらに視線をやる。
案の定、ハジと大勢の警官達がそこにいた。
ハジはグラムの肩越しに私を確認すると、再びグラムへ視線を戻す。

「犯人は」
「寝室」

ハジは手慣れた様子で控えていた警官達に指示を与え、気絶している犯人グループを確保した
全員負傷していたので先に応急措置を施したのだが、グラムが撃った箇所はどれも致死には至らないものらしい。
なによりハジは、隣人の治療を最優先でしてくれた。
その雄姿に私が笑えば、ハジは肩を竦めて微笑み返してきた。

「本物のヒーローみたいよ」
「本物だからね」

ほざけテロリスト。
小さくそう言ったグラムはハジに頭を叩かれていた。
その姿は、傍目から見ると仲の良い友人同士に見える。

――グラムはハジの手から逃れたがっていた筈だ。
ハジが部屋に初めて現れた時の焦燥ぶりは尋常ではなかったし、私はてっきり、ハジはグラムの天敵かなにかだと思っていたのだが。

しかし、目の前の男二人はまるでそういうふうには見えない。
信頼しあった友人とも仲間とも、家族とも取れる。

(これはこれでよかったの?……ねぇ、グラム)

警官達が一通りの調査を終えて私の部屋から退散した後、私がもやのかかる胸中で尋ねると、グラムはしれっとした顔で肩を竦めた。

「上司、兼、相棒だろ」

私はグラムの言い分に納得出来ない。

「相棒なら、なんであんたは逃げたの」

上司部下にしては対等過ぎるし、相棒にしては対等ではない。
グラムは開けっぱなしだった窓を閉めながら言う。

「まぁ、仕事上、互いの利益が噛み合わなくなっちまったんだ。仕方ねぇだろ」

(……仕方ないか?)

納得はいかないが、本人がそれでいいならそれでいいのかもしれない。
そして気が付けば静かになっていた。途端にどっと疲労感が押し寄せて、体が重くなる。
グラムの立つ窓際まで歩き、穴の開いたソファに座り込むと、それに倣うようにグラムも横に座った。
煙草に火を点けたのを見計らい、それを奪う。

「おい」
「疲れた」

文句を言われる前にそう遮り、煙草を口に咥える。慣れ親しんだ味が少しずつ私の体を解していった。

「ねぇ」

私がそう口にした時、グラムは煙草をもう一本取り出し火を点けたところだった。

「どうして、煙草、変えたの?」

吸い慣れた味は、私のそれではなかった筈だ。

「……なんとなく」

ハッキリしなきゃ自惚れてしまうよ、グラム。
真実を聞くより、ある程度自分の都合良く解釈した方がマシだ。

グラムの肩に凭れるでもなく、私の肩を抱き寄せるでもなく。
関係のある大人の男女が、二人ただ並んで煙草を吹かすなんて端から見ると少しおかしい。
そんなことを考えながら投げていた膝を抱えた。

ベッドの向こう側には、血溜まりの跡。
それを見て思うのは、傷だらけのグラムをこの部屋に連れ込んだ時のことだ。
あの時も同じように、あんな血溜まりが出来ていた。

(タオルもコートも台無しだったな)

あの時は体も指も動かせなくて、水を飲むのも食事をするのも私なしじゃできなかった。

「ねぇ、グラム」

体中傷だらけの獣はどこにも行けない筈だった。
この狭い部屋に飼われていた金の獣は。

「……なんだよ」

金の獣は。

「どうして、来たの」

抱えた膝に顔を埋めて。
横に座る男の顔は見たくない、見れない。

「死にたかったのか?」

違う。
違うよ馬鹿。

そうじゃなくて。


「留まる気なんて、ないくせに」

違和感は、拭えない。
あのキスは、まるで期待出来ないキスだった。
気付かないまま、次を期待して別れた方がまだマシだったのに。

生殺し。期待させて、終わり。

「会う気も、なかったさ」

溜め息を漏らしたまま、私の唇に触れてきた。望みのない、キス。

「殺してくれたら、良かった」

泣き言と戯言が混濁して泣きたくなった。

「……勘弁しろよ」

苦笑。真剣な眼をした金の獣は、私の顔の横に腕をつく。

「だってもう……」

逢えない。

「私は、」

途切れた。

嫌だ、私は。

こんなキスは。



「……黙れよ」

いやだ、黙りたくない。

「なんで、来たの……」

何度だってそう思う。
この先もずっと、あんたが恋しくて恋しくて、どうしようもなくなったときに。

あのまま別れて、諦めなきゃいけなかったのに。
あんたが何処かで生きてるなら、それで良かった。
諦めようと、必死で。平静を装ってでも。

私は。


「嫌だ……、いや」

また私の元から去る背中を見なきゃならない。
そんなの、嫌だ。
それなのに、なんでまた、私の目の前にいて、触れてるの。

「……っ」

唇に鋭い痛みが走る。

「黙れ」

壁に置かれたままの腕が私の首を掴み、爪痕が付くくらい、強く指が食い込んだ。

グラムの顔が近づく。
灰緑は苛立ちを隠さないまま。

なに怒ってるの。
怒りたいのは私の方だ。

「いや、っだ……」

唇が微かに触れてすぐ、私はグラムとの間に手を置く。
あんなキス、要らない。

「どけろ」

唇を塞いだままの手に更に苛立つ灰緑が見える。

「いや」

金色の眉が寄る。ひどく不機嫌な、表情。

「ぃ、っ」

掌に感じるグラムの唇が動いたと思えば、押し当てていた掌の肉を噛まれた。
痛みに怯んだ隙を縫うようにグラムの唇が触れてくる。

「っ……」

グラムの両手が私の両手首を拘束する。
右の指で持っていた煙草が床に落ち、グラムの足がそれを踏み消した。
強制的なキスは正に、未来のなさを思い知らせるようで。
まるで焦燥に近いそれに、泣きたくなる。
らしくないのは、お互い様だ。未練たらしく、今拒めば先があるわけでもないのに。

楽しめばいい、リナ。
遊び慣れた大人の女として、最期を、楽しめばいいのに。

「っいやだ」

悲鳴を上げて、拒むなんてバカバカしい。
こんな女を、まるで早く手に入れたくて焦るように抱くあんたは、もっとらしくない。
これじゃまるで、自分自身に踊らされてるも同然だ。

思い知らされるだけだ。
不毛な結末しか産まない、互いの想いを。

舌に噛みついた。
それでもグラムは私を睨んだだけで、キスをやめようとはしなかった。

息苦しい。
必死に鼻で息をする。
微かな血生臭さが臭うのは、私が噛んだグラムの舌なのか、部屋の血溜まりなのか。
どっちにしろ、血の池が出来ているこんな部屋で事に及ぼうとしているのだから笑える。

このキスで、終わり。

いつか熱は冷めるのだ。
ただ、その熱に侵されている間は苦しいというだけに過ぎない。

「……リナ」

吐いた息が熱い。
一生、醒めなきゃいいのに。

醒めることを知っている。


「リナ」

キスを落とされたまま腕を引かれ立ちあがる。ソファから離れた体が冷えた空に気にぶるりと震える。

「グラム……?」

見上げた男は私の両頬を包んだまま、生意気な笑みを浮かべていた。

「掃除しようぜ」

そう言って、私から離れた。

――はい?

「こんな血生臭い部屋に、住みたくねぇだろ」

いや、そりゃまぁ、そうだけど。
眉間に皺を寄せる私を尻目にグラムはキッチンへと消えてしまった。
私は私で、それを呆然と見送るしかない。

「雑巾は?」

キッチンから掛けられる喧しい声に溜め息が出る。
拒んではいたが、こんな呆気なく放置されると逆に腹が立つのだが。

女心はかくも面倒だ。

「……馬鹿らしい」

吐き捨てた言葉はグラムの雑巾をせびる声で掻き消された。


「うるさい」

キッチンに向かうと、勝手に冷蔵庫を開けてビールを取り出している泥棒と目があった。。掃除はどうした。

「ただ呑み」

手近にあった布巾を投げつけるが、泥棒グラムはそれを避けつつビールを開ける。
人の物を勝手に拝借するなんてどういう教育受けたんだ。

「ケチケチすんな」
「偉そうに」

不平を漏らしながら、私はシンク下の棚にしゃがみ込み雑巾を探った。
確かいらなくなったタオルをここに突っ込んでた筈。

コツ……。
棚を漁る私の背後で、缶をテーブルに置く音がする。
そんなもの聞こえなきゃいいのに、片思いの相手がいるティーンエイジャーみたいに全身を耳にして、グラムの立てる物音を聞き洩らさんとしてる自分が憐れだ。

「俺さぁ」

耳元でグラムの声が聞こえたと思ったら、背中に柔らかな体温が覆い被さってきた。
微かにかかる体重によろける。

「……邪魔」

しゃがみ込む私と同じような体勢で背後から包み込む。
折った両足を開いて、その間に私を納め、首に腕を廻して。
グラムの額が、私の肩に押し付けられていた。

「ちょっと」

その体勢が辛くて、不機嫌な声を出すと、グラムは小さく笑ったようだった

「掃除しねぇと、な」

苦笑混じりの。
まるで自分に言い聞かせるように。

「だから、邪魔だって」

今度ははっきり笑われる。
なんなんだ。

「――俺さぁ」

押しつけられた顔から困ったような笑いが吐かれて、私の背中に熱が移る。
あついよ、グラム。

「そーいうお前が、いい」

なにを、勝手な。

(――…、このクソ猫)

いいってなに、この馬鹿。

「知らないよ、あんたの好みなんか」
「……だよな」

まわされた腕に力が入って、急に虚しくなった。

緩まない力、繋ぎ止めたいのはどっち?

こんなに好きなのに。
この先、あんたに会えないなら生きてたって意味がないくらい、好きなのに。

「殺してやればよかった」

あの時、拾わないで関わらないで見殺しにすればよかった。

「わりぃ……」

そんなこと露ほども思ってないくせに。

「俺は、生きてて良かった」

解ってるよ、馬鹿。
言ってみただけだ。
どうせ叶わないなら、せめて。

「……生きて、お前に会えて、良かった」

逆だよ、馬鹿。
私に逢ったから、あんたは生きてる。

私の肩にまわる腕に更に力が篭もる。
いい加減苦しかったけど、乱れた髪に馬鹿みたいに優しいキスをくれたから、黙っておくことにした。

「あんたが死んだら、私も死んでやる」

つまらない脅迫だ。
果たして効果はある?

「そりゃ、死んでも死にきれねえな、」

――そう、笑った。
今は、なんだかそれで充分のような気もする。