闇の中、痛みに魘されながら夢を見た。
この痛みの直接的な原因に魘されるのは、当然といえば当然か。
――走った。
ひたすら走り続けた。
息が切れる。筋肉が千切れる。
こんなになるまで走ったのは、殺伐とした人生を歩んできたなかでも初めてだったかもしれない。
恵まれた環境ではなかったからか、はたまた生前からの業なのか。
ただ、救いのない結末を恐れていただけで。
考えるだけで行きつきはしない答えばかり求めて焦がれるようにもなった。
逃げることでしか檻から抜け出せず、結局この様だ。
(あぁ、クソ……)
拷問如きで死にかけるとは下らねえ。
(ここで、死ぬのかよ、俺は)
(雨が、冷えやがる…)
「……っう」
男の呻き声で目が覚めた。
なかなか魅力的な目覚ましだと思う。
「からだ、いたい」
硬い床の上での惰眠はキツい。
カーペットの毛が、剥き出しになっていた皮膚に跡を残し、骨が軋んだ。
痛い。健康体でこれだ。目の前のミイラ男はさぞ辛かっただろう。
――とはいえ怪我の痛みのほうが酷くて、そんな事も考えなかったもしれない。
「っ……」
呻きはするが起きてはいないらしい。蠢く金色が、さらさらと床に零れてゆく。
「仕事……」
あぁ、もう、見とれている場合じゃない。
私の人生で、特別、大きな拾い物だろうこれには、足はあるが動けない。
「ねぇ、私、会社行くけど床に置いたままでいい?」
返事は期待せず、朝食のトーストにかじりつきながらミイラに話しかけた。
「…ゲホ、お゛ぃ、水」
声が返ってきた。
がさついた声が私の鼓膜を伝って背筋を震わせる。
喋ったかと思えば水をご所望である。
「……厚かましい男だね、ほんと」
冷蔵庫から出したミネラルウォーターのボトルを片手に覗き込む。
「ぃ、ってぇ……」
その造形は本当に整っていて、痛みに表情が歪んでもキレイだ。
「当たり前だよ。ほら、……ちょっと、起きあがるとか無理だからやめな」
傷だらけの腕を支えに上体を起こそうとするミイラを乱暴に踏み倒せば。
声もなく呻いた。
男の横に膝を付けて、屈みこむ。
「……ふざ、け、この、きょう、暴女」
「どうも」
「褒めっ、ねぇ」
「黙れって」
横たわる男の背中に膝を入れて、軽く上体を起こし、切り傷のある青い唇にボトルの口を付けてやる。
呻きながら唇を震わせるが、憐れにも水は唇の端から零れていくだけ。
「……飲めてんの?」
男は顔を顰めて、そんなわけあるか、と私に伝えてきた。器用な男だな。
「ったく」
私は水を口に含むと、傷の走る唇に吸い付いた。
傷の凹凸が擽ったい。
男の悲鳴を飲み込んで熱い咥内に水を流し込めば、抵抗を見せていた唇がやがて素直に喉を鳴らし始める。
何度か水を含み、流しこんで、それを繰り返して唇を離せば。
「鉄の味がする」
「て、め、傷舐めやがって」
至近距離で見た男の顔はやはり美しい。
「あんた、へんてこな目の色してるね」
「……個性、的、って、言えねぇのか、よ」
「褒めてんのよ」
灰に近い碧の眼球が、私をギロリと睨み付けた。
それを縁取る睫も、淡い金色。
芸術品みたいだ。
「てか、テメ、誰だ」
それはこっちの台詞だ、トンマ。
しかしこんな時にのんびりミイラと挨拶を交わしている暇はない。
私は壁に掛かった時計に目をやる。
完全に遅刻だ。
「スープ、動けて食べれるなら食べなよ」
恥もなく目の前で着替え、そのまま昨日放ったままだったバックを抱える。
そうしてヒールに足を突っ込んで玄関に向かう私を見て。
「オマ、もちっと着ろ、凍る、ぞ」
は?
「くたばれ」
乱暴にドアを閉めた。
取り残されたミイラは、私の言葉に眉間を寄せただろう。
(頼むからくたばってくれるなよ)
留守にしてる間、男が神に召されないことだけを祈って世の喧騒に飛び込んだ。