「あ、の……」
混乱しきりでろくな考えも浮かばない私の耳に嗄れた声が飛び込んできた。
それに弾かれるように頭を上げる。
「なに?」
声が震えたが、ほんの少しだけ恐怖が和らぐ。
見た目の割に、声は以前と変わらない穏やかな色が滲んでいたからかもしれない。
口から涎を垂らしてはいるが。
「ピアノ、き、聴か、せて下さいません、か…?」
怯えている私に気を遣っているのか、一歩だけ私から離れた。
私は状況に追いつけないまま、目の前の隣人を見る。
「勝手に入って、こんな、こと、失礼なんですが、……ピアノ、が、好きで」
途切れ途切れ。
合間に荒く吐く息は薬の症状だろうか。
隈の奥に光る眼は真っ黒に濁っていたが、昔と変わらない繊細な色を湛えているような気さえする。
「本当に、それだけ?」
声はもう、震えなかった。
「一曲だけ、一曲だけ、聴かせて……くだ、さい」
控えめの懇願。
疲れきった様子の隣人に、私は決意して溜め息を吐いた。
「下手ですよ?」
一応、断っておきますが。
人様に堂々と聴かせられる自信などない。
「リナさんは、お上手ですよ」
あ、笑った。
以前と変わらない、多少歪になってしまったけれど、人の良い笑み。
それが演技かどうかなんて私には判断できない。
震える脚を叱咤してピアノの椅子に腰掛けた。
(ええぃ、ままよ)
「リクエストは?」
弾けないのもありますけど。
そう付け足した私に、彼は疲れた表情をそのままに、波の立たない静かな池のように笑う。
ここ、スラムじゃよく見る表情だ。
生きる事に疲れきって、けれど死ぬだけの度胸もなければ楽に死ねる方法も知らない、もう、どうしようもないような。
そういう人間の大抵は薬に走る。
珍しい事じゃないが、薬に浸かるとなにをするか解らないから怖い。
「星に、願いを、あの、弾いて貰えますか……?」
少し躊躇いがちに、あまりにも可愛らしいチョイスが飛び出した。
思わず私は、口許に笑みを浮かべていた。
「OK」
リクエストされた曲は、母から教わって覚えた。
幼稚でつまらない曲だと乗り気じゃなかったが、この疲れた男に応える事が出来たことには感謝しよう。
ポ――ン……。
なるべく彼に穏やかに伝わるよう、刺激しないよう鍵盤を叩く。
グラムに続き、人に聴かせるのはこれで二回目だ。
隣人達と仲良く交流する性格でもない為、これで懐かれては困ると思いつつ、断るのも怖い。
(なにより、放っておけないし)
少しだけアレンジして、オリジナルより長く、優しく。
――途中、鼻を啜る音が聞こえたが、無視した。
こんな拙いピアノに涙してくれてるのか。
なんだか私の方が感動してしまう。
――ガチャ、パタン。
「……?」
しかし、曲の途中で響いたのは、二度目のドアが開く音。
隣人が出て行ったのだろうか。鍵盤から手を離さないまま首を巡らせると、隣人は先程と同じ場所に立っている。
(え、なに?)
隣人はドアの方を向いたまま、不思議そうな顔を浮かべていた。
カツカツカツ……。
足早に足音が聞こえたと思えば、隣人の肩がビクリと跳ねた。
「……ちょっと!」
二人目の訪問者は見覚えのある男だった。
確か〝テリ〟――とかいう、グラムの知り合い。
癖っ毛の男は、隣人に躊躇いなく銃を向けている。
完全に怯えきっている隣人を見るや否や、私は二人に走り寄って銃を握る男の腕を掴んだ。
「……どこまでお人好しなんです?」
こちらが牽制したつもりが、睨み返された。
「不法侵入者が偉そうに。あんた誰よ」
私の言葉に、テリは溜め息を吐いて銃を下ろした。
「テリ、と言います。貴方の猫の友人です」
「私のじゃない」
「言葉の文です」
飄々と返してくるテリという男を一睨みして隣人に目をやれば、私の気持ちを汲み取ったように、頭を下げて部屋を出て行ってくれた。
「ピアノ、あ、ありがうございます」
そう言った隣人は申し訳なさそうで、私の方がいたたまれなくなってしまう。
「なにを考えているんですか」
隣人が消えた途端、テリという男は私を睨みつけてきた。
なにが、と首を傾げれば憤慨したように声を荒くする。
「麻薬中毒者を部屋に招き入れて暢気にピアノなんか弾いて!なにもなかったから良かったものの、なにかあってからじゃ遅いんですよ?全く、僕が彼に言われて様子を見に来たから良かったものの……、あなた女性でしょう!?」
一気に巻くし立てた男に、呆然と口を開けるしかない。
今、私は説教をされているのだろうか?
「これからはもっと警戒すべきです!いくら隣人でも、中毒者を部屋に招き入れるなんて!」
ひどい怒りっぷりだ。オマエは私の父親か?
「いや、彼は勝手に入ってきた……」
間違いを訂正すれば、今度は目をひん剥いた。
「不法侵入者に巧くもないピアノなんか聴かせてなにになるんです!」
下手くそと言いたいのか。
「いや、でもまともに見えたし……」
私は私で、テリの迫力に弁解じみたことを口走っている。
「中毒者はいくらまともに見えても豹変するのが常識でしょう!どこで貴方を殺そうとするか!少しは危機感を持ってください!貴方のような無防備な女性達が、このエリアでどれほど狙われやすいか解らないわけじゃないでしょう!?」
百倍で返ってきた。
一頻り私を叱りつけたテリという男に、今度はこちらが冷ややかな視線を送る。
勝手に人の部屋に入ってきた上に、気の良い隣人を薬中のイカれ野郎だと罵る癖っ毛に、私は腹立を立てていた。
「薬中でもないくせに人を殺すような犯罪者がなにを偉そうに」
グラムの友人、ハジの部下と言うことはやはりこの男も犯罪者の一人なのだろう。
私の言葉にテリは言い返せず、閉口した。
「不法侵入については謝ります。ですがそれは、貴方の部屋に男が入っていくのが見えたので……つい。大体、勝手に入ってきたなんて、鍵をしてなかったんですか」
再び口喧しくなったテリを無視して、ベッドへと寝転がる。疲れた。
「……もう、うるさい、アンタ。グラム並みにやかましい」
ぐったりとなった身体をベッドに横たえ、顔を右腕で隠しながら私は勝手に飛び出す溜め息を抑えられなかった。
思ったより緊張していたのか、吐いた息と共に全身から力が抜けた。
更には今になって心臓がどくどくと跳ねている。時間差で凝縮された緊張がやってきた気分だ。
「それで、なにしにきたわけ?説教か?」
こっちはいなくなった猫を忘れるのに必死こいてるってのに、何故、今更こんな男がやってくるのか。
用があるならさっさと済ませて帰ってくれ。
「あぁそれとも、変態に言われて見に来たわけ?」
グラムが私を気に止めるわけがない。それでも期待している自分に嫌気がさす。
「猫、です」
飛び出た言葉に、私はテリを睨み付けた。
「ジョーク?」
もしそうならぶん殴ってやる。
不穏な私を見て取ったのか、テリは否定するように肩を竦めた。
「生憎、あなたとは冗談を言い合えるほど親しい仲ではありません」
「……ご丁寧にどうも」
この人アメリカ人じゃないのかな。なんか固い。いちいち長ったらしいし。
そんなテリに可笑しさを覚えながら、顔を隠していた腕でさり気なく口元を抑えた。
「嬉しいんですか?」
すかさず指摘してきた男に、溜まらず吹き出す。嬉しさが相まって。
「言わないでよ」
バカ正直に喜んでる自分に、自分が一番呆れてるんだから。
「……グラムの体は?」
「もう仕事に復帰出来るほどになりましたよ」
「そう」
仕事に復帰したと言うことは体の心配はもう必要ないらしい。
けれど仕事に戻ったということは。
「……あいつ、元気?」
人を殺すということだ。
それが厭で逃げ出したあいつを連れ戻させたのは、私。
「心配しなくても、彼は図太いです」
「……なら、いい」
そうか。
問題がないわけではないだろうけど、それなりにやってるなら、いい。
「心配していましたよ」
「なにを?」
「貴女を、です。本人は認めたがらないですが」
「心配って……」
なにか心配される要素があっただろうか。
「連続殺人やら、ボスやら、です」
何故か疲れた口調に切り替わったテリに疑問を投げつける。
「ボス?」
「ハジ警部ですよ」
「あぁ、あの変態……」
「その変態です」
目の前の男もあの変態にはだいぶ手を焼いているらしい。
彼の苦労を思うと、なんだか私まで一緒に疲れてしまった。
「心配いらない。変態からは連絡もないし、これからは仕事に追われるらしいから」
先程観たニュースを思い出しながら横になっていたベッドから起きあがる。
見知らぬ男を前にベッドで横になるなんて、グラムがこの場にいれば警戒心が足りないと怒鳴るだろうか。
「……バカ猫」
ガキっぽいせに、妙に面倒見が良かったことを思い出して、ぽとり、笑みが落ちた。
「国防長官秘書のニュース、観ました?」
妙に声を押さえたテリに顔を向ける。
そのニュースなら。
「さっき観た」
それがどうしたと言えば、更に小さくなった声色で。
「グラムですよ、あれ」
――あぁそう。
さも興味がなさそうに呟けば、テリは浅く溜め息を吐く。
(なにを期待してたんだか)
馬鹿だ。この男も、私も。
「……それじゃ、失礼します」
「サヨナラ」
軽く会釈をしたテリを見送りもせず、早々と別れを口にする。
視界を腕で伏せた耳に、入ってきた時と同じ足音が遠のいた。
「――リナさん」
遠くから届く。
まだなにかあるわけ?
「人が好いのも魅力的ですが、ご自愛を」
ちらりと視線を寄越した私に、テリは緩く微笑んでいる。
「ご丁寧にどうも」
腕の隙間から出した声は、掠れていた。
「グラムの言葉ですよ」
もっとも、彼はこんな丁寧な言い方ではありませんでしたが。
そう付け加えたテリに、やはり顔を覆ったまま。
「……なら、私にも言伝させて」
瞼を下ろしているから、視界が滲んでいるかなんて解らない。
でもきっと、歪んでる。
「下手に構わないで。うざい」
こっちは忘れたいのに。
あんたの記憶は在るだけで私の体を毒すから。
自分からは来やしないくせに、他人を差し向けるなんて半端な真似、勘弁してほしい。
「……そのまま、お伝えします」
テリはやはり丁寧に、私の伝言を受け取った。
「わざわざ出向いて貰ったのに、ごめん」
この拙い謝罪にも、きっとテリは微笑んだのだろう。
男は足音を静かに鳴らして訪ねた時とは相対的に静かに出て行った。
ドアが閉まる音を耳に、唇が震える。
「……くたばれ」
半端な優しさはなにより痛いってことが解らないのだろうか。
そこまで馬鹿でガキだったっていうの、グラム。
あんたは、残酷だ。


