「血で汚れた絨毯の弁償、早くして欲しいらしいよ」

仕事の合間、甲斐甲斐しく自分をからかいに来たらしい上司に、グラムは唖然とした。

(……この人、暇を持て余しているのかな)

グラムの話相手をしていたテリは、部下いじりに余念のない暇そうな上司に呆れる。
一応世間では、凄腕の刑事なのだが。

「テメェ、あいつには近づかねぇ約束だろうが」

グラムは苛立った声でハジを牽制するが、暇な上司はそんな部下の態度が楽しくて仕方ない様子だ。

「勿論、近付いてない。電話だからね」

ダリによってベッドに縛り付けられたグラムを挑発するように屁理屈を捏ねて肩を竦める。
長い脚を組み直しながら、上司であるハジはにやにやと唇を歪めていた。

(……性悪)

テリは吐き出したい溜め息を必死に抑える。

「揚げ足取るな、変態が」

グラムの灰緑の眼が鋭く睨み付けるが、彼と付き合いの長いハジにそれは通用しない。

「縛られている君に変態呼ばわりはされたくないね」

まぁ、それは認める。
付け足された言葉にテリは眉尻を下げた。
奔放な上司が自分を変態だと自覚していた事に驚く。

「縄のことならダリに言え」

ふてくされた様にハジから視線を外したグラムにも、同情に近い意味でテリは眉尻を下げた。

「……ダリはそんな趣味があったのか」

ボスの驚愕した表情に、ダリの兄として慌てて彼女の名誉を守る。

「グラムが怪我も気にもせず動き回るからです!仕方なくですよ!」

テリの必死の言葉に、ボスは納得したように顎に手を当ててグラムを見た。
変態との言い争いを放棄して煙草を吸っているその姿は、全く以てしおらしくない。

「その様子だと、復帰も近いな」

満足げである。

「言われなくても解ってる」
「それは、結構」

ハジの満面の笑みが気持ち悪い。

「俺に仕事やらせたきゃ、リナには近づくな」

あぁ、グラムったら往生際が悪い。ハジにそんな脅し効くわけがない。
釘を刺されたハジは、やはり肩を竦めてそれを受け流している。

「君が作った彼女の隙間に入り込むのは、僕こそが適任だと思わないかい?」
「思わねぇよ。今すぐ出てけ、変態」

短くなった煙草を灰皿に押し潰し、空いた片手でハジを追いやる仕草をひとつ。

「――あぁ、グラム、あとひとつ」

ドアに手を掛けたハジが、思い出した様に再び部屋を振り返った。
至極、真剣な顔で。

「愛してる」
「殺すぞ」
「リナからだ」

たちの悪い冗談だ。
思わず閉口してしまったグラムに、ハジは相変わらず真剣な眼差しを向ける。

「代弁してあげただけだよ」

彼女が君に言えなかった言葉をね。
或いは、君が彼女に言いたかった言葉だったかな。

そう含んだハジに続いて、テリもすぐさま部屋を出ていった。
長居するべきではないと思ったからだ。

仄暗い部屋で一人になったグラムは再び煙草に手を伸ばす。

「柄じゃねぇよ……」

生意気で勝ち気な女を思い出し、無意識に呟く。
彼女にいたぶられたあちらこちらに散る傷がずくりと鳴いた。

無音の室内。
リナが弾いた曲が不意に欲しくなる。
即席だ、と口笛で奏でたが、肺が痛んで終わった。

「バカ女……」

吐いた科白は音もなく壁に吸い込まれ、ただただ、虚しい。




ハジと不本意にも連絡を取ってからニ週間後、私の部屋に郵便物が届いた。
差出人は、『猫』。
長い円柱形の郵便物を部屋に引きずり込み、茶色のリサイクル包装紙を破く。

「……つまんないカーペット」

円柱を解くと、深緑に黒の幾何学模様が入ったシンプルな絨毯。
なんの洒落っけもないが、手触りはいい。
グラムの髪質に、少しだけ似てる。

(わざとか?)

私は広げたカーペットに寝転がり、長い毛を指に絡めた。

恋しくなるじゃん、クソ猫。
転がったまま、近くに転がるチャンネルを手繰り寄せニュースをつける。
明るいテレビ画面を見て、初めて涙ぐんでいたことに気づいた。

(阿呆の極みだ)


『昨夜二十三時頃、国防総省長官秘書のベックハーパー氏が自宅で遺体で発見されました。警察によれば何者かに銃で射殺されたとの――』

物騒な世の中。
下層も上層も、犯罪者には関係ないらしい。

そういえば、グラムはそういうものを飯の種にしていたのだったか。
詳しいことは解らないが、もしこのベックハーパー氏の件が彼の仕業なら、彼はもうそれだけ回復したと言うことだ。奴の仕業と決まったわけでもないのに、ハーパー氏には悪いが安堵した。

「アホらし……」

ここ一週間、やはり奴の事しか考えていない。


『……ニューヨーク市警きっての敏腕警部ハジ氏が、ここ数ヶ月に渡りスラム街で起きている連続殺人事件の犯人逮捕に本格的に加わるとの――』

たかが警部一人が捜査に加わるってだけで大層な報道。
奴からもあれ以来、連絡はない。良かったと言うより、惜しい気がしてならなかった。
ハジと逢ったからといって、グラムに繋がるわけじゃないのに。

望みを掛けるのはやめなよ、リナ。
いい加減、ウザすぎる。

(自分の気持ちに振り回されてばかりいる)

テレビの中ではあのハジが連続殺人犯に宣戦布告をしていた。
いかにも捕まえるのは容易いと言うような、犯人にしてみれば腹立たしいくらいに麗々な表情で。
それだけのバックが付いているからの自信なんだろう。なにせ、犯罪組織のトップだ。正攻法じゃだめでも、手段を選ばなければ逮捕も容易いだろう。なにより、あの男は容赦がなさそうだ。そんなのがニューヨークを守るヒーローと崇められてるなんて、笑える。

羊水にたゆたうような気分になり、グラムの髪質に似たカーペットに頭を擦りつけながら瞼を閉じた。
折角の休日が、妙に暇に感じるのはいつものことだ。
あぁ、この前はグラムと過ごしたんだっけ。

(せがまれて、ピアノ弾いてやって……)

「音楽治療、か」

そんな馬鹿な事を言っていた男の顔が、雨の音に合わせるように流れてゆく。

――雨は、癒してくれるだろうか。

期待してではないが、久しく触っていなかったピアノへと向かう。通っていたピアノ教室は、グラムが消えてすぐ後に辞めた。
意味はない。
ただ、なんとなく。
なんとなく、今まで通りの気持ちで弾くことかができない気がして。

鍵盤に置いた指の噛み痕も今じゃすっかり綺麗になった。
痕が残れば良かったとは思うが、肩口の傷は残りそうなので、多くを望まないように。

留守電も、聞かなくなった。

鍵盤を圧す度に、グラムにピアノを教えたことが思い出されて高揚する。
目の奥に滲んだものを感じて、すべてを抑え込むように瞼を下ろした。そしたら、メロディを間違えた。
音が外れた曲は間抜けで、まるで私みたいだ。
じわりと滲んだ涙が枯れるまで、滅茶苦茶に鍵盤を圧し続けた。
酷い、不協和音。こんなもので癒されようなどと一瞬でも考えた自分が情けない。
力の加減も考えなかったから、隣近所に筒抜けだったかもしれない。

(……まぁ良いか)

一人は朦朧した婆さんだし、もう一人は、人の良い地下鉄掃除員だ。今まで文句を言われたこともない。
涙が枯れた所で瞼を開ければ、自然と溜め息も出る。
黒と白の鍵盤が私の視界に迫ってくようでまたすぐ閉じた。

逢いたい、グラム。




ガチャ……。


「!?」

耳に届いた音に、私は弾かれた様に玄関へと目をやった。
聞き慣れたドアが開く音に、まさかグラムが、と期待したわけではない。

(鍵、してなかったっけ?)

この街で施錠しないでいるなんて自殺行為だ。
今まで一度も忘れたことはない。

(昨日、昨日……、どうしたっけ)

昨日は同僚と飲んで、それでも泥酔はしなかった筈だ。しなかったけど、記憶が曖昧。

カツ。

足音。徐々に近付いている。

(銃、は、引き出し)

カツ。

あぁ、もう脚が震えて動かない。
心臓が壊れたように跳ねている。
このままでは、ヒトに許された心拍数を簡単に突破してしまうのではないか。

カツ。


「――っ、……あ?」

悲鳴を上げかけて、しかし、現れたのはお隣で暮らしている気の良い地下鉄掃除員だった。
ただし、見慣れた穏やかな笑みは浮かんでいない。
目の下に酷い隈が出来ている上、荒れた唇からは涎が垂れている。

――ドラッグ。

気の良い、なんてただの世辞にしかならないような形相に、思わず後退った。

「すみません。ピアノ、うるさかったですか……?」

恐らく意味はないだろう謝罪を口に、彼との距離を計る。
見たところ凶器は持っていない。
首を絞め殺されるのだろうか。それともキッチンの包丁で?それとも暴行されるのか?
恐怖に痺れる体が厭だ。
心臓がギリギリと締め付けられて、うまく頭が働かない。