「…寒い」

起きた当初は死ぬかと思われた体調の悪さも、夕方になると熱も下がりだいぶ良くなった。
今のうちだと、一日中潜っていたベッドから抜け出し浴室へと向かう。
着込んだ服を床に散らかしながら、寝過ぎてはっきりしない頭のまま浴槽の蛇口を捻った。
そこでやっと身を引き裂くような寒さに身を震わせる。
浴槽に湯も張っていないのに裸になるとは、なんてバカなんだ。湯が溜まるまで裸で待っていなきゃならないじゃないか。

病原菌が頭にきているらしい。

堆積を増やしていくバスタブの湯を眺めながら、私は瞼の奥が滲むのを感じていた。
寝ている間も、それらの間を縫うようにはっきりとする意識の中でも。
馬鹿みたいにグラムの顔しか思い出さないなんて、相当イカれた女と化している。自分でも呆れる程だ。
それなのに、気を緩めればすぐにグラムとのキスを思い出して全身が疼いてしまう。
居なくなった猫を想っても、生産性ゼロだよ、リナ。なんの役にも立たない。

そういって、結局グラムの事ばかり考えている自分に舌打ちしながら鏡の前に立った視界の端、見慣れぬものが映る。鏡に映る見慣れた裸体に、猫が残した噛み痕と。


「キスマーク……?」

右胸の膨らみの上にある赤黒く熟れた華。
付けられた記憶はない。行為に夢中で気付かなかったのだろうか。
ハジか?いや、ハジにいたぶられたのはここじゃない。

「――……っ」

考えて、心臓と傷が痛いほど疼いた。
未だ体の奥に再現出来る、すべてを焼ききるような灼熱。そして、魘される。

(恨むよ、グラム)

あんたは私を喰い殺していった。

だからだろうか。
恨んでいるのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
私の大切なものだけを腹に収めて、不要な塵芥を置いていったりしたから。今にも崩れそうな脆い体は空っぽだ。

――熱い。
それなのに熱を産み出すなんて、便利どころか余計な世話でしかない。大体、こんなものを残して行ってしまうなんて。

「……殴れば良かった」

自ら墜ちた穴から這い出すことを許さない、朱い痣が憎らしい。

「たく、冗談じゃない」

その痣を消さないようにその場所をわざわざ避けて体を洗う私を誰かなじってくれ。

拾った猫は、帰らない。

(……そんな可愛げのあるものでもなかったか)

金色の獣は、爪痕や噛み痕を残すだけに止まらず、私の全てを喰らっていったのだ。

「……痛い」

こんな不確かで曖昧な印を付けられるくらいなら、抱かれるんじゃなかった。
右胸のそれはいつか消えてしまうと言うのに、あの男を鮮明に思い起こさせるには充分で、あるだけで酷く重い。

――それなのに。

「なに笑ってんの、リナ」

風呂上がり、鏡に映る自身を罵倒した。
目も当てられない自分の姿。

もうお子様じゃないんだから、泥臭く焦がれるような気持ち、要らない。
体内に渦巻く余計な考えを消し去ろうと、私は素早くベッド脇の煙草に手を伸ばしていた。
火を点けて、体の奥に巣喰う疑念やら期待やらを毒煙で殺してやろうと思い切り紫煙を吸い込む。

――それなのに、口の中に広がる慣れた味にすら、金色の気配が漂った。


「……これ、私の煙草じゃなかったっけ」

持ち主は私だ。それなのに連想するのはあの男。或いは、その男に抱かれている自分。
気怠い体をベッドに沈め、紫煙を揺らした。窓の外は、変わらずに、雨。
久々にベッドを占領出来たというのに、もはやそれは喪失感を呼び寄せるものでしかない。
置いて行かれたわけでも、捨てられたわけでもない。

――そうでしょ、リナ。

言い聞かせて、更に馬鹿馬鹿しさが増すのだから相当だ。
熱に侵された体が重い。煙草の火を揉み消す動作ひとつ億劫。だからこそ、代わりの手が欲しくなる。


『グラム、煙草消して』
『自分でしろよ』

そう文句を言いながら結局、あいつは私の手から白いフィルターを受け取るのだろう。

「……アホくさ」

恋した男との妄想なんて許される歳でもない。
なんとか重い腕を持ち上げながら、灰皿に煙草を押し付けた。
グラムが溜めていった吸い殻を捨てて、綺麗にしたアルミ製の灰皿。
私が吸った吸い殻も、グラムが吸った吸い殻も、二人で吸った吸い殻も、全部。

私が今吸ったばかりの吸い殻がひとつだけ横たわるそれを見つめ、こんなことなら棄てなければ良かったと、懲りずに考えた。
そのまま次々に浮かぶグラムの顔を夢の中に捨ててしまおうと試みて、けれどもどうしてかうまくいかない。
夢にまで見た。そのせいか夜中に目が覚めて、居やしない男に振り回されるとは情けない。
再び眠りに就く気も起きず、時計を見れば普段起きる時間より一時間も早かった。

(中途半端に寝るより、このまま起きていた方がいくらかマシだな)

ベッドに横たわったままニュースをつける。
普段、ニュースをまともに見やしない私がチャンネルを変えなかったのには、深夜にろくな番組がないという理由の他に、私に偉そうに説教をした男の事を思い出したからだ。

『自分が生活してる場所で起きていることくらい把握しておけ』

(……偉そうに)

しかし正論。尚更腹立たしい。

天気予報が流れた。
明日も、雨。
ここ最近降り続けている雨に、必然的に梅雨を思い出し、おまけのように四季というものを感じていない事も思い出した。
無意識に煙草を手に取っていた自分に苦笑し、バカらしくなる。

『……地区での連続殺人事件の犯人像は未だ掴めないまま調査は難航している模様です。NY市警によれば、犯人はその地区の住人である確率が高いということもあり、地区周辺の住人達に警戒を呼び掛けています』

ふと、私が求めているような類いのニュースが流れてきた。
犯人はご近所さんか。
なら、殺しにきてくれればいい。

グラムに会えないなら、こんなつまんない人生意味がない。
グラムに逢うまで、一体どのように生活していたのか、それすら思い出せないのだから。
私の世界は、完全に終わりを迎えていた。
胸元の朱が、私が生きた唯一の証のようにも見えてくる。

「は……」

吐いた溜め息は自嘲の笑みとして耳を裂く。妄想癖を持つ同僚じゃあるまいし。
大仰に言ったところで私は死ぬことなどなく、また明日から何の問題もなく生きていくに決まっている。
気分は悲壮の極みだとしても、地球が崩壊する訳じゃない。

本当に馬鹿な女に成り下がった。

(それでもあんたがもたらしたものだと思えば)

嫌悪すら薄れるというのに。




翌日、私は何事もなかったように出勤した。
一晩に様々な事があったせいで、馴染みのオフィスもボスの 顔も新鮮に見える。
グラムが置いていった銃を代わりにとボスに返そうと見せた が、安物は要らん、と突き返された。謝れば、お前が病院送りにならなくて良かったよ、と冗談っ ぽく笑い返してきたので私も勿論笑い返す。陰でハゲとか言ってすみませんでした。

なんだ、笑顔というものは案外簡単に作れるものなのか。
妙なところで感心しながらデスクに戻ると、例の妄想好きの 同僚が私の携帯電話を掲げて手を振っていた。

「リナ、電話」
「ありがと」

そう言って携帯電話を受け取り、ディスプレイを確認もせず 通話ボタンを押す。
それが間違いだった。

『――仕事中に失礼』

ここ数日で覚えた不愉快な声が聞こえてきたのでほぼ本能的に通話を切った。

「あれ、リナ。電話は?」

随分早く切ったのね、と顔を傾げる同僚に。

「間違い電話よ」

と答えたところで再び携帯が震えた。舌打ちが出る。

『……いきなり切るとは酷いな、傷ついたよ』

くたばれ。
傷付いたと言うわりには愉快が滲む口調を遮るように眉を釣り上げる。
そのまま同僚が聞き耳を立てているオフィスを抜け出し、人気のない非常階段へと向かった。

「失礼なのはどっち。いま、仕事中」

そう言って切ろうとすると、ハジは感嘆の溜め息を吐いて見せた。
受話器越し、わざとらしく。

『案外、元気そうだね』

逞しい限りだ、と付け加えるハジに苛立ちながらも、私は声を抑えて話を続けることにした。
あんたと話したいわけじゃないけど。

「……猫の具合は?」

自分の下からグラムを奪った張本人にこんなことを尋ねるのは癪だが、他に訊ける相手がいないのだから仕方ない。
何の手掛かりもないよりは、よほどましなのかもしれなかった。
それが、私の首を絞めるとわかっていながら。

『……気になるかね?』

その静かな口調に、素直に頷く。

「世話してた猫の安否くらい、気にする」

例え、もう戻ることはなくても。

『元気だよ。相変わらず生意気だ。負傷して、多少は大人しくなっていることを期待してたんだが』

苦笑混じりの言葉に嘘はないと確信して、相手に伝わらないよう浅く安堵の息を吐いた。
猫は無事。
もうそれでいいじゃない、リナ。

『猫は、君への恩を仇で返さなかったかな』

まるで保護者のような口をきく。
恩を仇で返す、か。

――そうでもない。

空っぽの部屋に帰れば、きっと言いしれぬ喪失感を抱くだろうが。
でもそれは、仇とは違う。
私が勝手に惚れて、手放したくなくなっただけだ。


『食事でもどうかな』

不意に口調を軽くした男に、溜め息が漏れた。
目的はそれか。

「グラムと約束したんでしょ」
『なにを?』
「私に関わるなって」
『起きてたのかい?』

口約束をしたあの時、私は端で交わされていた話を聞ける状態じゃなかった。

「別に、あいつならそうするだろうって、思っただけ」

それは希望すら混じる。
ハジの疑問に携帯を持つ手を変えながら、答えた。

『自惚れだね』

さる女と部下との間の奇妙な繋がり。
ハジはつい意地の悪い台詞を吐く。

「自惚れか……」

そうかもしれないね。
呟いた私の声は静かで自嘲と虚しさが混濁している。
けれどグラムは確かに、ハジに嫉妬していたのだ。
そして今私も、ハジに嫉妬している。

(私が失ったあいつとの時間を、この男はこれから過ごすことができるんだから)


「恩人を変態の餌食にはさせないよ、うちの猫は」

それが私に固執してのことなのか、上司に奪られることへ対する意地なのかは、解らない。

「気位の高いお猫様だったし?」

自然と苦笑が浮かんだ。
無意識に浮かんだ笑みの筈なのに、口元は痙攣し、目の奥は熱い。

『――リナ?』

受話器越し。
私の異変に感づいたのか、ハジが気遣うような声を掛けてきた。
私から猫を奪った張本人のくせに、変な男。
熱が集中し始めた両目を閉じ、浅く呼吸を繰り返す。

「……なんでもないよ」

そうして落ち着けば、何事もなかったかの様に声が出た自分を内心で誉めてやりたい。

『それで、食事はいつにしようか』
「……あんた、私の話聞いてた?」

つい笑みが漏れた。
この男に慰められるのは釈然としないが、今の所、グラムの話を出来るのはこの男しかいないのだから仕方ない。

「仕事、戻るわ」
『残念だ』
「次、また誘っても無駄よ」

私は可笑しい、と唇を震わせた。

『それは燃える。グラムで釣ってもいい』
「なにそれ、早速釣られそうだわ」

ニヤリと口元を緩めて非常階段を後にした。
まだ繋がったままの携帯に向けて、思い出した様に口を開く。

「……猫に、伝言頼みたいんだけど」