「……まさか逃げ出すなんてね」

上司のプライベートルームへと呼ばれたテリは、職場で場違いにワインを愉しむハジの相手をさせられていた。

「よくある事でしょう」

自分が所属する世界規模の犯罪組織には、それこそ数ははっきりしないものの多くの優秀な人材が揃っている。
そんな中、褒められるものでもない仕事に嫌気が差して逃げる輩も五万といるのだ。
何よりルールが星の数ほどある。更にはそのルールを破った罪は命より重い。それを守れなければ、この組織自体の存続にかかわるのだ。
ある意味、刑務所のようなこの組織にしてみれば、脱走者など珍しくはない。
みすみす逃がしはしないが、去る者を追って報復を下すような真似は、ハジに言わせてみればスマートではないし、わざわざ追う必要もない、と言うことだ。
当然、秘密結社であるから内部情報を漏らされては困る。
それを防ぐにはやはり殺すのが一番手っ取り早いのだが、だからこそ、この組織の存在を口にすればどうなるか、逃亡者本人が一番良く解っているのだ。

いくらか優秀なだけの人間が逃げたとしても、それを追うことに貴重な労力と金を割く必要はない。
そんなものに労力を配するくらいなら、新しい犯罪に手を付けて金を儲けた方がマシだ、というのがうちのボスの持論だった。

「グラムはどうかね?」

だから今回は、異例中の異例。

「休んでますよ。傷の完治はまだ先になりそうですが」

再び熱に浮かされ始めたグラムの様子を思い出し、テリは溜め息を漏らす。
ハジもまた、唇の奥のワインを飲み込んで溜め息を吐き出した。

「完治次第、仕事を回せるように手配を」

怪我人を酷使するボスの台詞に不服ながらも従う。
用は済んだと踏んだテリがハジの私室から出ようとドアに向かったが、ボスの独白がそれを引き止めた。

「彼女は、大丈夫かな……」

なんとまあ、このいかれた上司らしい独白ではないか。

(グラム、やっぱりまだまだ安心はできないみたいだ)

テリは一気に体力を削ぎ取られたような気持ちになり、ぎこちなく後ろを振り返った。
ハジは赤ワインをくゆらしながら、どこか思案げな顔つきで自らが起こす赤い波を眺めている。

よからぬ事を企む顔だ。

溜め息が出る。

どうやらグラムと自分の読みは当たったらしい。
目前のサディストは、新たな獲物に爛々と目を輝かせていた。

「寂しがっていなきゃいいが」
「少なくとも、ボスの添い寝だけは必要としていないと思います」

ハジの恍惚を揉み消すようにテリも口早に反抗するが。

「グラムに頼まれたかい?」

そんなテリをからかうように視線を投げたハジは、さも可笑しいと余裕の笑みを歪めただけだった。
その言葉に、テリは無表情のまま肯定を示す。

「あのグラムが気にとめるなんてね、ますます興味深い」

少なくとも、食玩以上の役割は果たしてくれそうだ。
ハジの呟きに、テリは微かに顔をしかめた。
牽制するつもりが逆に煽ってしまったらしい。

(病気だな)

テリはそのままハジの私室を後にすると、グラムの眠る部屋へと直行した。

人の色事に興味はないが、哀れな友人に手を貸すくらいはしてやろうと、妙に同情に近い想いを抱いている自分に苦笑した。


「手っ取り早く殺すか」

部屋へ戻ってハジとの全てを聞いた友人の第一声がそれだ。なんて短絡的。
テリは肩を竦めた。

「僕達を路頭に迷わす気かい?」

この組織が潰れれば、実入りの半分以上が減るのだ。

「犯罪なんかやらなくても、お前等なら普通に食っていけるだろ」

慇懃な態度でグラムが言う。
まあそれは、もっともだけど。

元々、様々なスペシャリストを引き抜いて形成されている犯罪組織だ。
例え身ひとつで世の中に放り出されたとしても、そんな彼らを必要とする場所はいくらでもある。

「……それはともかく、どうする?」

もしかしたら、監視が付けられている可能性もある。
第一、グラムはまだ自由に身体を動かせない。
ハジとはいえ、全快のグラムを相手に色事にうつつを抜かせばただでは済まないからこそ、動くならグラムがまともに活動出来ない今の内だと考えているだろう。

「かったりぃなあ」

煙草をふかし、面倒臭そうに瞼を閉じたグラムの台詞にテリも多いに賛成だ。
たかが上司の性的嗜好にこうまで振り回されるとは、グラムもテリも、まさか考えていなかった。

(……残虐な性的嗜好者の上司に、厄介な意地っ張り)

馴染みである筈の煙草を不味そうに飲むグラムに気付き、テリは何度目か解らないあやふやな息を吐きだした。

「……彼女のもとに、もう少しいたかったんじゃない?」

余計なことだと知りつつ、思わず漏らしたその言葉にグラムは表情を固くした。

「心配でしょう?彼女が住んでいる地区は、今話題の殺人事件が起きている場所だしね」
「……見当は?」

煙草を咥えたまま、グラムは静かに僕に尋ねる。
結局、なんだかんだ言って気になるのだから意地なんか張らなきゃいいのに。

「確信はないけど、一人、怪しいのがいる」
「――誰だ」

表情を少しだけ険しくしたグラムに、次の言葉を言うのを躊躇った。
感情の起伏の激しい自己中男ではあるが、この顔はそんな生易しい時に浮かべるものではない。
獣さながら、本能がなにかしら察知しているらしい

(……ここまでご執心とは)

テリは今更ながら、内心で意外だ、と毒づいた。

「テリ、続きを」

だからこそ、やはり躊躇われる。
黙ったテリに痺れを切らしたのか、不機嫌が滲む低い唸り声が室内に木霊する。

「――誰だ」

更に強く促す。
自分こそ見当がついているんじゃなかろうか。

床を睨み付けたままのグラムに、テリはまた息を吐いた。


「彼女の隣人」