あぁ、体が怠い。
頭が働かない。
こめかみに激痛が走る。

――風邪だ。


「うそでしょ……」

一体、何年ぶりにひいただろう。
渡米した当初はよく体調を崩していたが、最近は病気らしい病気もしていなかったというのに。
起き上がろうと試みるが、十本の爪の先からすべての力が逃げていくように力が入らなかった。
そもそも筋肉の存在感が完全に消えている。立てそうにない。

(……つらい)

出勤は無理だと踏んで、以前に暗記しておいたボスの携帯番号を頭の中から引き出した。

「グラム、電話」

鬱々とした意識に苛まれて、「取って」、と続く前に違和感に気付いた。

「……ああ」

気付いて、全身から更に力が抜けてベッドに項垂れた。

そうだった。獣は、古巣に還ってしまったのだっけ。

急激に脳髄を襲った喪失感に瞼を閉じる。
眠りから醒める必要など失かった筈なのに。

あのまま、薄闇に融けてしまえれば良かった。

薄い膜を通して感じられる朝の日差しは残酷に私を現実へと浮かび上がらせている。
体を引きずって電話のところまで這って行き、風邪を引いたので会社を休むとボスに連絡すると怒鳴られた。
それとは相反して、ハジの件についてはうまく収まったと報告すれば、心底ほっとしたと胸を撫で下ろされ、部下の葬式に出なくて済んだと安心された。

嫌味な程、優しい人間だ。

でも、なんだかもう、それすらウザったい。
ボスには悪いが、今じゃハジと縁が切れた事すら後悔しているというのに。


「……あ」

そういえば、ボスに借りた拳銃をハジの家に忘れてきた。
一瞬、グラムに繋がる口実があったことに喜んだが、すぐに萎える。

――しつこい、リナ。

別れを済ませた男を追うなんて、みっともない。


(……意地を張る余裕があるのなら、まだ傷は浅いのか)

無意識に零れつづける溜め息に、私は情けなく苦笑した。

仕方ない。手放すのは惜しいが、グラムが置いていった拳銃を代わりに返すことにしよう。

(……あっても辛いだけだ、きっと)

寒気を覚えて、未だ裸のままだった自分に気付いて自嘲した。
床に落ちていたシャツを羽織り、そのままベッドへと沈み込む。

グラムが残した傷の痛みが熱を持ち、体全体を蝕んでいた。
罪深い熱は穏やかに、それでも確実に私の体を飲み込んでいく。

(――このまま風邪を拗らせて、死んじゃえばいいのに)

何度目か解らない祈りは神への冒涜だ。

それでもやはり、祈らずにはいられなかった。

終わってしまったのだ、私の世界は、もう。
それなのに死んだ世界で生きているなんて、あまりに厚かましくて、なんて滑稽なのか。

あぁ、頭が痛い。










「――あれ、煙草変えた?」

開口一番、友人であるダリはそう口にした。
即席で吸っていたリナの煙草の匂いが髪に染み着いていたらしい。

「世話んなった奴が吸ってたんだよ」

未だ完治していない体をオフィスの寝台へと投げ出す。
煉瓦造りの壁を見て、のうのうとまたここに戻ってきた自分に嘲笑が漏れた。

リナと別れてすぐ、ハジの部屋へと連れられそうになったところをテリが止めた。
ハジの部屋に行けば、仕置き拷問は確実だからだ。
そうなれば、治りかけていた傷も開き寧ろ悪化する。
となると、また暫く仕事が出来ない。ただでさえ溜まっていた仕事がまた留まる。

――と、友人としてか仕事を任されている立場としてか、テリはつらつらと述べてハジを納得させた。
元々仕事場を寝床にしていたので、ハジの手を逃れて行き着く先は、自然このオフィスとなったわけだ。


「ダリ、煙草買ってこいよ」

寝床に横になりながら、俺はテリと話しているダリを見た。

「煙草なら買い溜めがあるわよ。あんたご贔屓のやつ」

そう言って、俺の私物が詰めこまれたロッカーを勝手に開けて弄くり始める。
リナのものとは違う、長年親しんできた筈のそれ。

「……あぁ、じゃあ、それで良い」

数日の間に煙草の嗜好すら変わっちまったのか。
ダリから火の点いた煙草を受け取り、ゆっくりと口へ運ぶ。
もし、ダリじゃなくあいつなら、素直に渡したりなんかしないだろう。

「……ハッ」

馬鹿馬鹿しい。
たかだか数日、共に生活しただけの女になにを執着してやがる。
怪我を癒され、一度抱いただけの、女に。

十数年吸ってきた馴染みの煙草を、今は体が欲していなかった。

「不服そうだね」
「なにが」
「全部」

そうかよ。
コーヒーを片手に、テリが俺を覗き込んでいる。
いくらか年上で兄貴面する友人に向けて、俺は紫煙を吐き出した。

「彼女、さ」

顔に纏わりつく煙に鼻を鳴らし、テリは神妙な面もちで口を開いた。
あまりにも真剣なのでからかいたくなる。

「誰のことだよ」

意味のない足掻きを口にしながら毒煙を脳髄まで滲ませる。

――忘れたい。


「君の事を、グラムって呼んでいた人の事だけれど」

テリはテリで意地の悪い言い方をする。

「……二人いるぜ、それ」

その言葉に、テリはその切れ長の目を面白いくらいに見開いて見せた。

ダリは話に混ざろうとせず、なにも言わずに部屋を出ていく。
その際に開けた扉が閉まるのを横目で見ながら、テリは先を続けた。

「……もしかして、本名なの?」
「さぁな」

ただ、一番最初に呼ばれた名前がそれだったってだけだ。

「孤児時代の通り名がグラムだったんだ。……初耳」

空になったコーヒーカップを眺めながら、テリが小さく呟く。
俺は黙って短くなった煙草を灰皿に押し付けた。

地下にあるこの部屋には、窓も無けりゃ光もない。
本来ならオフィス内にある自室にいるべきだが、俺はハジの命令でこの部屋に通された。
小さい電球と大きな通気口によって、明暗と喚起が行われている薄暗い部屋はガキくせぇ嫌がらせの結果だ。

「ボス、多分つまみ食いするよ」

確かに、ハジ本人としてはテリの言う通りつまみ食い程度のつもりだろうが、摘ままれた女にしてみればそれだけで済まない。

死ぬか病むか発狂するかの選択肢。
先天的サディストのハジのイカレタ性癖は、それこそ何人もの女を喰い潰してきた。
仕事面から見ても、各国の要人や一般人、はたまた希少価値の動物まで、とにかく幅広く世界を喰らってはいるが。

「恩人に借りを返す気はあるの?」

点滅を繰り返す不調な電球に眉をしかめつつ、テリは俺を見下ろした。
さすが友人と言うべきか、余計な世話だと言うべきか。

「なくはねぇよ」

今こうして何も考えず、煙草を飲めるのはリナのお陰であり、そんなでかい借りをそのまま放置しておく気もない。

「協力は惜しまないよ」

生きていなけりゃ、こうして友人の台詞に感謝することもないのだ。

「……頼む」

本来なら、もう自身の犠牲は払ってはいる。
あれだけのリスクを負いながら、抜け出した組織に逆戻り。
血生臭い生活へ出戻る気など毛頭なかったが、恩人を盾に取られては仕方ない。

――正直、あの面白い女をみすみすハジの手で廃人にしたくないというのが本音だが、なんだからしくないのでそのまま瞼を閉じ口を噤んだ。

「寝るかい?」

その言葉に、頷く仕草だけで返す。

「そんなに気になるなら、連れてくれば良かったのに」

余りにも無茶な話に、口から勝手に乾いた笑いが漏れる。

「そんなんじゃねぇよ」

思うよりずっと、掠れた声が出た。

「なら、良いけど」

煮えきらない態度のテリは、お休み、と一言だけ残して地下を出て行った。

熱が未だに傷を食む。
その僅かな熱に誘われるよう眠りに墜ちたが、完全に墜ちる寸前、懐かしい記憶を脳が勝手に再生し始めた。

女の腹ん中から産まれたのは確かだろうが、母親に育てられた記憶はない。
気付けば、イギリスのしがない街でゴミを漁り、他人の家の軒先で雨を凌いで生きていた。
自分の名前も解らなければ、歳が幾つなのかという判断もつかない。

『シスター』

溝鼠のような生活をしていた俺は、巡り巡って、やがて一軒の教会に住み着いた。
教会では数人のシスターが、俺のような孤児達の面倒をみていたのを覚えている。

住み着いて数日。
俺の名前は未だになく、シスターをやってきた時間だけは一番長いという老婆は、俺に合う名前を考え続けていた。

『あんたは他の子とちょっと違うから、すぐに浮かばないわ』

早く名前をくれと催促すると、いつもの笑顔でこう返される。
暇潰しに教会に置かれた書物をすべて読み漁り、それこそ聖書から物理学、精神論まで見境なく。
やがて近所の変人から、爆弾の作り方や人の殺し方を学んだりした。

度を超えて、貪欲な子供だった。
教会の居心地は悪くなかったが、もともと劣悪な環境下で育った俺には暇ともいえる平穏は合わなかったらしい。
幸せだと感じながら、ガキのくせに裏では残虐な行為にばかり及んでいた。

『低体重児だったのかしら』

ある日、一向に身長が伸びない俺にシスターが冗談めかして言った。

『ていたいじゅうじ』
『産まれた時、他の赤ちゃんより体が軽くて小さい赤ちゃんの事をいうのよ』

俺のおかっぱ頭を櫛で梳きながら、穏やかな声で語っていたシスターが唐突に声を張り上げた。

『……グラムだわ!』

深い由来などなかった。
ただ、自国では使わない重さの単位を当てはめただけ。
その名前が、俺の身体の足りない部分を補ってくれるようにと。

それでも初めて与えられた自身の名に、俺はらしくもなくはしゃいで喜んだのを覚えている。



――「グラム」。
それ以来、シスターは俺をそう呼び続けたが、他の連中は決して呼ぼうとはしなかった。
裏でやっていた悪さのせいもあるだろうが、いつの間にか俺と普通に接するのは名付け親のシスターだけになっていた。
俺が一線を引いていたせいもあったが、賢い子供は皆、俺に近付こうとしなかった。

教会で暮らし始めて半年経つか経たないかの頃、転機が訪れる。
もともと治安の良くなかったその町の郊外で勃発していた民族間の紛争はやがて規模を広げ激化し始めた。
既にその頃には平然と人を殺す俺が出来上がっていたわけだが、身近で不利益な殺人が日常的に起きていたため、それが悪とも分別していなかった。

やがて戦火は小さな街にも届き、過激派のテロ行為に巻き込まれ教会は潰れた。
俺は辛うじて助かったが、混乱の中、シスターの行方も解らなくなった。

結局、教会でのまともな暮らしは一年と経たず終わりを迎え、俺はまた溝鼠へと転身。
協会で身につけた知識やら変人から得た技術で、闇ブローカーの奴等を相手取って路銀を稼ぐ毎日。

――そんな時だった。



『雇われる気はないかね?』

軍に籍を置いていたハジとの関係はここから始まる。
溝臭い生活から抜け出せる最高のスカウトだった。
そうして胡散臭い男だと警戒しながらも、俺はハジの手を取ったのだ。

『名前も生年月日も、国籍もない』

俺の真っ白な経歴は、ハジの仕事に大いに役立った。
ハジの情報網を以てしても、俺の存在を匂わす情報は存在しなかったらしく、例え表立って顔を出しても、政府や警察組織には、俺がどこの誰かすら判明しない。

――ハジにしてみれば、最高の使いっぱしりだったことだろう。
仕事の報酬金額にも不満はなかったし、以前にも増して血生臭くなった生活にも、さして違和感なく馴染んだ。
シスターのことで胸を痛める時もあったが、不自由ない生活に不満などない。

生きている。

それだけで充分だった。


(――それが、まさか)