「リナ……」
首に絡めた指を解き、締められた痕を癒すようにさすられる。
咳き込みながら呼吸を貪る私の額に唇を落とし、ハジは柔らかな笑みを向けてきた。
「喉を締めるのは悲鳴が聞けなくてつまらないね」
ほざけ、変態。
情けなく頬を涙で濡らしながら、酸素をそれこそ必死になって吸う。
精一杯の不愉快を伝えようとハジを睨みつけた。
今にも墜ちそうな意識に、全身で抗いながら。
「……っ死ね、クソ野郎」
噎せる喉から絞り出した痛くも痒くもない悪態に、クソ野郎は人の悪い笑みを浮かべた。
「君は本当に美味しそうだ」
「くたばれ」
グラムが引き金を引く。
乾いた音が目の前を掠めた。
真横を見れば、古い壁紙に小さな穴が開いていた。
「そいつには借りがある。俺が必要なら手を出すな」
静かで単調な声。
――借り、ね。
酸素不足の頭で皮肉げに呟く。
なんて味気ない言葉。
「……誰」
両腕で上体を起こしたところで、私はやっと窓際に立つ男に気が付いた。
ベッドの下に首をのばせば、そこにも倒れている男達。
いつの間に、これだけ不法侵入者が増えたのか。
「ふざけんな。人んちでなに勝手にやりあってんの」
眉間に皺を寄せて、私は未だ人に馬乗りになったままのハジを苛立たしげに押しやった。
素直に退くハジが、緩やかに口角を上げる。
「リナ、それではまた、逢う日まで」
「会わない」
まだ違和感の残る首をさする。
最悪だ。グラムの熱が消えてしまった。
「テリ、行こうか」
テリと呼ばれた男がハジの言葉に不思議そうに首を傾げる。
なんだその頭。爆発でも起きたのか。
「良いんですか」
「構わないよ」
そうしてハジはグラムの横に並び、小さく耳打ちした。
「通りで待とう」
「……あぁ」
不機嫌を隠しもしないまま、グラムは銃を握る腕をだらりと垂らした。
それを眺めながら、私はせり上がる胸の痛みにひたすら耐えている。
――死ねば良かった。
この際、あの変態に殺されたって良かったかもしれない。
別れは、すぐそこだ。
どうせ会えなくなるなら、グラムの足なんて引っ張りたくなかった。
倒れていた男達を叩き起こし、血で汚れた床の弁償代はグラムに請求するようにとテリはきっちりと言い残して窓の向こうへと消えてしまった。
途端、戻った静寂に頭が割れそうになる。
「……首、平気かよ」
ベッドで上体を起こしたまま黙りこくっている私に、グラムが声を掛ける。
全く以て、声色に変化はない、いつものグラムの声。
諦めても悲しんでも悔しがってもいない。
それが嬉しいのか虚しいのか、解らない。解りたくもなかった。
「迎え、来たんだね」
口を開いたら皮肉が出た。
「有り難くねぇ迎えだけどな」
グラムは苦笑し、こちらへと歩み寄ってきた。
変わらず煌めく灰緑が、停止寸前の私の胸を焦がす。
逃げなよ。
逃げちゃいなよ、グラム。
「……迷惑掛けたな」
嫌な言葉。真面目にお別れでもするつもりなの?
メイワクカケタナ。
(寧ろそれは、私の台詞だ)
なにも解らないまま、なにも教えないまま、あんたは私から去るんだね。
「ごめん……」
零れた言葉は心底つまらない謝罪だった。
罪悪と共に沈黙まで訪れて、つらい。
なにか言ってよ、グラム。
間抜けな謝罪が、あまりにも滑稽だった。
ねぇ、グラム。
「……なにがだよ」
鼓膜に響いた低い声が、ひび割れた私の体に雨のように染みてゆく。
単調な喋り口調に、今はただ癒された。
「私のせいで、あんな、変態に」
あんな酷い傷を負って、それでも逃げ出してきたのに。
生かしておいて、台無しにした。
「ごめん、グラム」
バカなリナ。
逃したくないとひたすら願ったのに。
これじゃあ、自分から追い出したも同然だ。
「生きてるだろ」
銃がベッドへと放られた。
けれど考え直したように、すぐまた黒光りするそれを手に取る。
その一連の動作を見て、何故か解ってしまった。
一生、手放していたかったのだと、知っていた。
「今、俺は生きてる」
痛いだろうに、両腕で身体を支えて、私の顔を覗き込んでくれる。
やめてよ。こんな汚い顔、見てくれるな。
――泣いてしまうから。
その灰緑に、涙が溢れてしまうから。
「だからなに、バカ」
悪態しか吐けない私を許して。気を抜けば、今にも無様に泣きじゃくってしまいそうな私を許して。
血生臭い呼吸が頬を撫でた。
――熱い、グラム。
聞け、リナ。
灰緑が語る。
慰めなんて要らない。
あんたが残らないなら、もうなにも要らない。
「俺は生かされた、お前に」
でも、殺した。
耳の柔肉にグラムの息が掛かり、鼓膜の震えが全身に走る。
どうしてこんなになっても熱いままなのさ、グラム。
そのまま高熱に融けてしまいそう。
「リナ」
耳朶に唇が触れる。甘いなんてらしくない、グラム。
「お前が生かしたんだ」
震える。
いやだ、グラム。
「……死なないで」
あぁ、なんて滑稽な。
「約束したろ」
あんな口約束、拭けば飛ぶようなものなのに。
「もし死んだら、殺してやる」
「おっかねえな」
下らない陳腐な台詞。
何様のつもりなの、リナ。
「……リナ」
その唇。触れ慣れた凹凸が、私の頬を擽ってもうどうしようもなくさせる。
「死なないで」
震えてしまう、全て。
外を叩く雨音が、憎らしくも私の涙を誘うから。
「当たり前だろ」
優しい唇が堪えきれず流れた涙を堰き止める。
首を巡らせて、距離すらない位置にいる男を見た。
長めの金色は外の薄闇に濡れて銀色に発光し、灰緑の眼球が生意気にも穏やかで優しいから。
私を、映しているのに。
キスを、した。
どちらからかなんて解らない。
気付いたら瞼を開けたまま、キスをしていた。
愛しい。
ゆっくりと瞼を降ろしてほんの一瞬。
滴った涙が宙に踊り出す前に、離れた。
つまらないキス。
優しすぎて、ねぇ、残酷だよ、グラム。
これで、おしまい。
屈めていた上体を起こす。
まだ痛々しく歪む身体は、それなのに足取りを確かに私から離れていく。
扉に向かう。確かに、遠ざかる。
その背中を見ながら、立ち上がることも出来ない。
――行ってしまう。
傷付いた獣はもう、私の保護の手を必要としていないのだ。
「グラム」
外に出た声は、飼い主をなくした猫のように、情けなく震えた。
奴は、振り向かない。
行かないで。
声にしようとした言葉はふるりと唇を震わせただけ。
キィ……。
無機質な音の向こう。
金色は残酷に揺らめいて、融けた。
「……っ、」
置いて行かれた、街灯を反射して煌めく拳銃に気付いた。
同じように置いてけぼりを喰らった気分は、深い深い孤独の底に溜まりながら。
置いて行かれた、なんて、なんて滑稽な。
ここは私の部屋だ。
置いて行かれたのは私じゃなくて、この拳銃のほう。
巧くもない慰めは醜くて悲しくて、まるで寂しさを助長してゆくようだった。
私は嗚咽を引っ込めて、ベッドから飛び降りた。
窓際のソファに身体をぶつけながら、巧く動かない手に舌打ちして窓を開ける。真下を見れば、黒い錆び付いた階段の骨組みに邪魔される視界。
濡れるのも構わず、隣接するその非常階段へと飛び出した。
凍るような冷気が身体を包み、足裏には氷の棘のような冷たさが突き刺さる。
手摺りを握れば、掌から凍りつくつくような、見えない棘が突き刺さった。
激しい雨が私を押し潰そうと、肩や胸を無情にも叩いていた。
階段の真下。
アパートメントの扉の正面に停められた黒いジープの前で、ハジと話をしているグラムが見える。
闇の、灰色に霞んだ金色が、愛しい。
(グラム……)
名を呼びたくても呼べない。
無言のまま、ただそれしかできない子供のように立ち尽くしていると、二人の横に立っていたテリという男が私に気付き驚愕したような表情を浮かべた。
その男が自分の体を指差す仕草を見て、初めて自分がなにも身に着けていなかったことに気付く。
そして、テリに耳打ちされたグラムが、私を、見る。
素っ裸でずぶ濡れている私を見て、驚いた顔すら浮かべない。
まるではじめから、私がこうするこることでもわかっていたみたいに。
室内へ引き返そうとしない私に、グラムは先程のテリと同じように、諦めたようだった。
水分を吸った金の髪色が、ここまで離れてなお、綺麗。
「……か、ぃで」
聞こえる筈がないと承知していながら。
吐いた言葉は、別れのそれですらなく。
「行かないで、グラム」
惨めだ。
こんな言葉、届かなくていい。
それなのに、届いてほしい。
手摺りを握る手が、ぶるぶる震えるほど、悴んでいた。