「づ、ぅ…」

意識を失って凭れてきたリナの体が傷を圧迫する。
痩せて尖った身体は、思っていたよりずっと小さくてか細かった。

(――あぁ、最中ずっと、俺に負担が掛からないように気を遣ってたのか)


「馬鹿な女……」

その細い肩口に口付ける。
弄くり回した傷は、噛み痕から痛々しく放射線状に広がり、その箇所だけが唯一共有されたものだった。
唇が湿ったのを感じて舐めれば、咥内に広がる血臭。

「ツ、」

汗で冷えてきたリナの体を抱えてベッドへと寝かせ、ピザ屋に用意させた服を着てベッドに腰掛ける。
汗と涙で顔に張り付いている、リナの黒髪をなんとなく、拭った。
身じろぐ湿ったリナの身体には、無数の血痕が川の様に続いている。
それは、肩の傷口から血塊を点々と残し足の先まで続いていて、鎖骨にこびり付いているその血痕のひとつを拭う。鋭利な爪で肌を傷付けない様、慎重に指の腹で擦り取りながら。

ひとつ、ふたつ。

薄闇で見る血痕は、痛々しい痣の様にも見えた。

みっつ……、ひとつひとつ、リナの身体を汚すその血痕を癒すように消していく。

けれど。

「……あ?」

五つ目の血痕。右胸の膨らみの上。
固まった血の凹凸もない上に、その血痕は消えない。
最後の足掻きでそれを強く拭ったが、その血痕はそれでも消えなかった。
馴染みのないそれを目の当たりにして、自分を馬鹿にしたような渇いた笑いが込み上げた。

「キスマーク、かよ」

無意識に残していたらしい。痛みに気を取られながらも、冷静に抱いているつもりだった立場としては。

「……ざまぁねぇ」

その後も血痕を拭い続けたが、キスマークはその一つだけだった。
身を屈め、眠るリナの胸元に唇を寄せる。
柔らかな胸に顔を埋め、ひとつだけ残したキスマークの上からもう一度、強く強く吸い付いた。
強く吸いすぎたせいで、リナが小さく身を捩る。
眉間に皺を寄せて不機嫌そうに顔をしかめたので、慰めるように濃度を増した鬱血を舐めた。
ベッドの端に腰掛けて、その薄い肉付きの頬を撫でる。

部屋の端に転がるドレスを一瞥して、漏れる溜め息を抑えられない。
気を紛らわすように、煙草を手に取った。
ここ数日で舌に馴染んだ味に、自然と苦笑が漏れる。


「――ハジ」

街灯と煙草の火だけが照らす静かな室内で、俺の声だけが空気を振動させた。

「……聞いてんだろ、出てこいよ」

この部屋を取り囲む様にして潜んでいるだろうハジを含め、テリとその他を呼ぶ。
リナの髪に指を差し入れながら、ベッド下に隠しておいた拳銃を手に取りセーフティを外した。
そうして元仲間達が駆けつけるのを、黙って待つ。

その間にも、まだ完全ではない身体が痛んだ。
本来なら絶対安静の身を酷使したのだから、当然と言えば当然か。
気分的にも生理的にもすっきりしたとは言え、塞がりかけていた傷も開いてしまった。
これではまともな応戦すら出来ない。

――それでも、あの痛々しい体を掻き抱かずにはいられなかったのた。
触れれば痛むとわかっていながら、触れずにはいられなかった。


「仕方ねぇか」

漏れ出た呟きに反応するようにして、微かな物音が耳に届いた。
梳いていたリナの髪から手を離し、腰掛けたまま煙草を咥え、右手に銃を握る。
硬質の冷たい感触が、意味もなく酷い感傷を産んだ。

「……よう」

礼儀正しく玄関から侵入してきた男を一瞥して、嘲笑を浮かべた。
しかしハジの片眉は怪訝そうに顰められて、そのどこか人を食った容姿に拍車をかけている。

「久々の再会だというのに……、なんて臭いだ」

口許に手をやり、臭うぞ、と一言。
俺は気にも止めていなかったが、この寝室には気分を害する程の血臭が充満していたらしい。

「激しい女だからな」

ハジを視界に収めながら、ベッドで眠るリナを一瞥する。
すうすうと落ち着いた寝息を立てているリナからは、先程の激情など微塵も感じられない。

「そのようだ」

ハジの艶やかな視線が、俺のそれと絡まった。変わらぬその悪癖に呆れる。

「相変わらず、女と見りゃ見境ねぇな」

銃口を床に向けたまま、まるで争う気などないように、仕向けて。

――まだ下手には動けない。



「彼女は、良い声で鳴くね」

うっとりとした音色を響かせて、ハジはリナへと近寄ってきた。

「盗聴か?度を越した変態ぶりも健在だな」

溜息を吐く様に笑った。
銃口をゆっくりと上げ、近寄るハジをそれとは解らないよう牽制する。
しかしハジはそれを気にするでもなく歩調は緩めない。

「あぁ……、傷だらけじゃないか、可哀想に。お前を必死に庇っていたのに。痛い目に遭いながらね」

その言葉に、弾かれた様に右腕を上げた。関節が悲鳴を上げたが、今はどうだっていい。
必然的に、銃口はハジの眉間を狙う。

「こいつに何した」

低く唸る獣の眼は、まさしく血に飢えたそれそのもの。
変わりないその狂気に、ハジは穏やかな笑みを浮かべる。

「噛み痕とキスマークを」

その広い肩を竦め、ハジは唇を片方だけ釣り上げた。道化を装う男に苛立ちが募る。

「死ね」

吐き棄てれば、溜め息。

「全く、彼女の口の悪さは君譲りかね」
「ちげーよ。あれは元からだ」

ハジの歩みを止めることもせず、視線を窓へとやった。
それにつられて、ハジもそちらへと顔を向ける。

「やっと来たか」

その呟きと共に閉じられていた窓が静かに開かれた。
音もなく黒い制服に身を包んだテリが顔を出し、同じ姿をした数人がそのあとに続く。
それを眺めながら、ハジが不平を漏らした。

「……遅くはないかね?君達の到着を前に私が殺されたりしたらどうするつもりだ」

全員武装しているのを確認して、俺はうんざりと肩を落とした。
生き残る確率は待てば待つほどあるのかないのか。

「貴方は殺しても死なないでしょう」

やっとこさ登場した部下の一言に、ハジはしかめ面を浮かべた。
そんなハジを他所に久しく会わなかった友人を見れば、相変わらず縮り毛で真面目なツラをしてやがる。

「よぉテリ、ダリはどうした?」

懐かしさに笑みを浮かべつつも、見当たらない馴染み顔を問えば。

「留守番だよ」
「なんでまた」
「ダリは君に甘いんだ」

友人の前だからか、口許の傷が痛むのも忘れつい笑顔になる。
まさかこんな形で再会を果たすとは思ってもみなかったが。

「……グラム、と名乗ったんだね」

彼女に。

そんな俺から視線を外し、サイレントガンを構えたまま、テリはベッドで眠るリナを眺め小さく付け足した。
本当にぽつりと墜とされ言葉の真意には、気付きたくない。

「――あぁ」

深い意味はないのだと、何故この唇は紡がないのか。
リナの上下に動く胸元を、増えた傍観者から隠すようにシーツを引き上げた。

「お気に入りなの、グラム」

その仕種に微笑みながら、グラム、と。
少しばかりの皮肉を込めてテリは言った。
意地の悪い友人に、〝グラム〟は苦笑する。

「そんなんじゃねぇよ……」

この女は、そんなんじゃないんだ。

「私はお気に入りだけどね」

テリと俺の会話に便乗してハジがからかう。
相変わらずいやらしい笑みを張り付けたドの付く変態を、思いきりぶん殴りたくなった。

「殺すぞ」

警告すれば、おやまぁと肩を竦める。

「情でも移ったんじゃないかね?君が一人の女性に執着するとはね」

してねぇよ。

ハジが俺の横に並ぶ。
銃口を床に向けたまま、俺はただ床を見据えてリナの寝息に耳を傾けていた。

「飼ってみようかな……」

誰に言うでもなく呟かれたそれを無視して、ゆっくりと立ち上がる。お喋りはやめだ。



「――それで、大所帯でなにしに来たんだ?」

解りきったことを口にする。
体の痛みを耐えながら立ち上がれば、それを警戒して待機していた数人が銃を構えた。

「帰ろうか、グラム」

それを見遣り、ハジがこちらを振り向く。
両手を広げ、さも大袈裟に演じながら。

「……数日の間に、グラムという名の方が定着してしまったらしいね」

テリが苦笑気味に呟く。
俺はベッドから離れ、数歩先の壁へと向かった。
トナカイがいるなら引き摺ってもらいたいと思うほど重い体に、息が上がるのをひた隠しにして。

「重度の傷を負っているとは思えないほど軽やかな足取りだ。怪我は完治したのかね」

するか、ボケ。

その怪我をもたらせた張本人に皮肉を言われ、鼻に皺が寄る。
銃を握る右腕を力なく垂らしたまま歩みを止めない俺の動向を、五つの銃口が見張っていた。それを背中に感じながら、やっと辿り着いた壁に力なく背中から凭れ、痛みに唇を歪める。