「リナ」

食後のコーヒーを飲みながら、ハジは甘い声を出してテーブルの上に置かれた私の手を取った。鳥肌が立つ。

「もし良ければ、私の猫を見に来ませんか?」

まずい。ベッドに直行、フルコースだ。

「明日も仕事だから、また次の機会に」

努めて平静を装う。
拒絶しているのだと言い聞かせるように、握られた手を振りほどこうとした。

「いえ、是非おいで頂きたい」

しかしその手を今度は強引に引き寄せられてしまった。またしても肌が粟立つ。
睨むように目を釣り上げたが、ハジは微笑を浮かべたまま見返してきた。
有無を言わせぬ青い瞳に唇を噛む。

折れるしかないのか。
解っていながら、それでも足は動こうとしなかった。

「――リナ。貴方が私の家まで付いてきて頂けるなら」

その声はあくまで穏やかで、不穏など匂わせやしない。

「猫の安全は、保証しますよ」

甘い声の、脅迫。

「……なに言ってんの?」

あくまでしらばっくれる。そうしなければ、完全に相手の思う壺だ。
だからといって、今のこの状況ではこの男を回避できるとも思ってない。どうしたらいい?

「……貴女のアパート周辺に、私の部下達を待機させています」

ハジの静かな言葉に、全身から血の気が引いた。

「ついてきて下さるだけで結構です。先を強制させたりしません」

――先って、なに。
ハジは微笑を浮かべながら、握っている私の親指の付け根を撫でている。この変態め。

「来て頂けるなら、部下は撤退させます」

そんな言葉、信じられるか。
現時点で自分を脅迫している男の言葉など微塵も信用出来やしない。
それなのに、それをあえて口にする男の真意が掴めず、私は唇を深く噛んだ。

「さぁ行きましょう、リナ」
「……Fuck you」

腕を捕まれ無理矢理立たされる。不愉快を乗せて、汚い言葉を囁いた。
それがハジを喜ばせる結果になってしまったことに、私は気付かなかったが。

ホテルを出て十分後。
超高級マンションのエレベーターの中に私はいた。
ハジのマンションはニューヨークの鮮やかな街に囲まれ、優良な立地条件の元に建てられているコンシェルジュ付きのプライベートマンションだった。
エレベーターからの夜景は、自分が置かれたこの状況をさしおいて美しい。

(でも、よかった……)

郊外の高級住宅地に連れて行かれては逃げることもままならないと危惧していたが、ここなら、と少なからず安心する。
一軒家ではないことも救いだ。ただ、造りがまずい。
このマンションはエレベーターからすぐ各々の玄関に直接入れるようになっていて、セキュリティは階数と各部屋のパスワード。
二つが揃わないと自分の部屋へは辿り着けない。
つまり逃げ出してすぐエレベーターに乗り込んだとしても、一番近い階数に逃げ込んで隠れることも出来ない。
一番下まで降りないと逃走できないというわけだ。時間がかかりすぎる。

(……ジーザス)

バッグの中の拳銃だけを頼りに、敵の部屋に足を踏み入れた。
エレベーターから直接広がるリビングは整頓され、モダンな家具が揃えられている。いかにもな内装だが、人が生活している部屋というよりは、生活感のないモデルハウスだ。

「適当に寛いで」

飲み物を用意しながらハジが言うが、寛げと言われて寛げる筈もない。
一先ず出口に一番近い椅子へと腰掛けた。
拳銃をいつでも取れるよう、右手をバッグに重ねる。

「リナ」

目の前のローテーブルに置かれた赤ワインとグラス。

「シャワーを浴びてくるよ。先に飲んでいてくれて構わない」
「あぁうん、……は?」

予想だにしなかったハジの言葉に、つい間抜けな声を出してしまった。
シャワぁ?

「あぁ、勘違いしないで。する為に浴びるわけじゃない。警官は肉体労働が主でね」

(するってなにを)

穏やかに微笑みながら、ハジは際どい台詞を残して浴室へと消えてしまった。
掛けられたレコードからは、ゆるいシャンソンが流れている。
澄ましたそれを耳に、玄関へと向かいエレベーターのボタンを確認する。
素早く扉を開いて階数を押すシミュレーションを何度かして、馬鹿らしい、と頭を振った。
グラムに関する情報をなにか得られないかと、寝室や書庫を覗きこむ。
なにもないと諦めたところで、キッチンの作業台に置かれた一台のパソコンに目がいった。
電源が入ったままのトップには、なにかのデータが映し出されている。
この際、ハジに失礼だとか人としてどうかとかいうモラルはかなぐり捨てた。

カチ……カチ……。
どこかの国の戦場の画像、それに関する記述。まるで新聞記事をそのままデータにしてあるようだった。
一体なんについてまとめたものなのかわからない。
シャワーの音に耳を澄ましながら、マウスを握り、一番上へとスクロールしていく。

表れたのは、見知った顔だった。

「グラム……」

明らかに個人情報であろうデータ内容には、名前、生年月日、血液型や体重など、様々な情報が書き連ねてある。
けれど、生年月日は「unknow」となっていた。

――名前は、『グラム』ではなかった。
戦場孤児であり、イギリスの孤児院でおよそ十歳まで育てられたこと。軍人に拾われ、軍の特殊教育を受けたこと。

199*年 西独の潜入捜査官、爆発に巻き込まれ死亡
200*年 国家安全保障委員会会長、事故死
200*年 ケンタッキー州上院議員、自宅のプールて溺死…………

緻密にまとめられたそれを読み進めながら、自身が受けた衝撃に平静を保てそうにない。
全て事故死との記述があるが、きっとこれは事故ではない。

――目眩が、した。



「彼は優秀な男だよ」

そうして背後の気配にすら、気付けないで。

「……っ」

振り返ろうと身を捩る前に、背後から抱きすくめられた。
硬く長い腕に囲われ、身動きが取れない。

「全く君は、自分で自分の首を絞めている」

耳朶に当てられた唇が甘く囁く。
呆れたような、けれど楽しくて仕方ないというような、嗜虐者の戯れ。

「……これ、なんなの?」

パソコン画面に視線を置いたまま、拘束されている。

「君が拾った猫のことだ。素晴らしい経歴だろう?」

小さく笑いながら、ハジは私の曝された項に唇を這わす。
その熱っぽい吐息とは反対に、私の身体は冷たくなっていった。

「……グラムは、一体なんなの?」

震えて、出した声まで掠れていた。

「グラムは、彼の名前ではないよ」

ムカつく。解りきった事を口にする暇があるなら、さっさと質問に答えればいいのに。

(私を痛めつけようとしてる……)


「うちの猫は、グラムだわ」
「……君は素敵な女性だね」

なおも質問に応えようとしないハジに、苛立ちと不快感は増すばかりだ。
腹いせに体を拘束している両腕を思い切り抓ってやった。

「イテ」

さもからかうような声色で笑みが吐かれる。痛くも痒くもないと、楽しげに。
くたばれ!

「質問に答えて」
「殺し屋だよ」

愕然とした。

(冗談でしょ……)

殺し屋が人の部屋の前に転がってるなんて、世も末だ。

「僕専用のね」

はしゃぐように、男は笑う。

「つまらない話になるが、僕は世界中にアンテナを張った大規模な犯罪組織を個人的に所有していてね。犯罪というものは大金を産み出しもするけど、それとは別に金も掛かる。まぁそれで、資金集めの為に依頼を受けて、殺しをやったり破壊工作をやったりする」

特に彼の腕は絶品だよ。正確、確実、無駄もなければ、まるで殺しのひとつひとつが芸術品のようだ。
まあ芸術品なんて無駄なものの代表格だけれどね。
ハジがふふ、と耳元で笑った。

「軍人だった頃、イギリスでの特殊任務中に彼を見つけてね」

(イギリス、ボスが言ってた……)

最早、頭はショート寸前で、そんなことくらいしか解らなかった。
この先、まだこんな話ばかり飛び出すのか、と動悸ばかりが速くなる。
耳慣れない言葉ばかりで、理解するので精いっぱいだ。

「彼の素質を一目で見抜いた僕は彼を欲した。その頃、まだアイデアでしかなかった組織建設の為にね」

吐き気がする。子供の遊戯の駒集めじゃあるまいし。

「……仲間の軍人を、殺したの?」

その言葉に、一瞬だけハジの笑みが潜められる。

「彼らは邪魔でね……、リナ。今の君のように」

低くなった囁きを理解してすぐ、首筋に噛みつかれた。
グラムの付けた噛み傷に重ねるように歯を立てられて、ぶちり、と肉が弾ける音を聞く。
すぐにその傷を癒すように吸い付かれて、体から力が抜けた。

鈍い痛みに耐えるべく、強く強く、歯を噛みしめ、目を閉じて。


「当時の記憶はなかったことにしてあるが……、僕は嘘が得意でね。それで邪魔者を始末した僕は、彼を持ち返って育てた。素晴らしい才能の持ち主だったよ。与えれば与えただけ吸収する。頭も良いし、仕事に余計な感情は持ち出さない。普段は傍若無人で生意気な男だが――」

私の肩に出来た醜い鬱血を、ハジはうっとりと眺めたあと、がぶり、耳朶を口に含む。
気持ち悪い。触るな、変態。

――好き勝手にされる体を厭い、唇を噛み締めゆっくりとバッグの中に手を忍ばせた。


「……時に、リナ」

吐き出した耳朶に唇を寄せたまま、腰を撫でられる。甘ったるい声色に噎せそうだ。

「猫とはもう、寝たのかい?」

ハジの掌がゆるりと脚の付け根を撫でてきた。

「っ、」

それを合図に、握っていた銃をすぐさま取り出した。
そのまま延長線上の動作で骨が軋むことも構わず身を捩る。
いきなりのことだったからか、それともはじめからそのつもりだったのか、ハジの拘束から私はあっさり抜け出した。そのままの勢いで銃を構えると、彼は降参だ、というように両手を上げた。
浮かぶ苦笑が、腹立たしいことこの上ない。
こんな状況、痛くも痒くもないとその顔が言っている。

「全く勇ましいな、君は」
「あんたは卑怯者で度を越した変態だわ」
「褒め言葉だよ」
「くたばれ」

銃口を向けられているにも関わらず、ハジは動揺した様子もなく軽口を叩いている。
反する私は、優位に立っていながら今にも恐怖と緊張で卒倒しそうだった。

「……もうお帰り、リナ。残念だけれど、約束だからね」

その言葉に、嘲笑が浮かぶ。

「冗談でしょ?信用出来ると思う?」
「するかしないかは、君次第だ」

ふわり。ハジは相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、玄関への道を開けた。
ハジを睨みつつ銃を構えたまま、一歩、また一歩と玄関となるエレベーターへとにじり寄る。

「……グラムをどうする気?」
「さぁ、どうしようか」

対峙する男はあくまでふざけた態度を崩さない。
有利に立っている筈なのに、この焦燥感と不安はなんなのか。

『――逃げろ!』

頭の中でボスが叫ぶ。
爪先から這い上がる恐怖に後押しされるまま、私はハジに背中を向けた。
それでもやはり、ハジの微笑は揺るがない。
私を見送ったハジの足元には、二匹の美しいシャムがじゃれていた。




「……全く、飼い猫に爪を立てられるなんて」

飼い主失格だな。
そう独りごちて、ハジは電話を手に取った。
女性との約束は守らなければならない。
正直、守るつもりなど毛頭ない戯れ言に過ぎなかったが、彼女を見て少々気が変わった。

(少しばかり楽しませて頂くとしよう)


「テリ、配置は済んだのかな?」
『とうの昔に』

通信機越し。
抑えられた少し低い声に部下の緊張が滲んでいる。

「待たせて悪いがこの際だ。僕が指示を出すまで存分に愉しみながら待っててくれ」
『イエッサ』

上司の気紛れはいつもの事。
愉しめる要素など何一つないが、テリは呆れながらもハジの命令に従った。

――雨足は未だ、揺るがない。