「二年前、死んだの」

アメリカに渡って三度目の春だった。
大学時代の友人と、L.Aで暮らしていた時分。

「酷い雨でね。助手席に母さんを乗せたまま、地滑りに遭ってそのまま」

彼に捧げた曲を、ゆっくりと、ゆっくりと、彼の赤い爪が弾(はじ)いている。

「慌てて帰国して葬式を終えて独りになった家で、父さんのピアノだけを眺めてた」

一週間、ずっと。
死に目にあえなかったとか、そんな後悔はなかった。
事故死だし、どうせ日本に居たとしても死に目にはあえなかっただろう。

(――ただ、それでも)

「傍に居てやれたなら……。そう、後悔したよ」

何度も何度も、帰ってこいと言い続けた両親の言葉を無視し続けて、結局、アメリカへ渡ってからは一度も帰国しなかった。
彼らがどんな思いでそう言っていたかなんて、考えようともしないで。

「それからかな」

グラムは既にピアノから手を離し、煙草を静かにふかしている。

「ピアノ、弾き始めたのは」

ピアノに両手を付いて即興の曲を極力静かに、それでも本気で弾いた。
雨が少しでも、この音を隠してくれるように願って。
グラムは煙草を咥えたまま、弾かれる鍵盤をただ眺めている。

「教えろよ」
「……なにを」

不意にグラムの手が私の指の跡を辿る。不可解な言葉に首を傾げれば。

「……この曲」

あれ、可愛いな、コイツ。
私は声を上げて笑い、快く怪我人の命令に従った。

「その腕じゃ、両手は無理だね」
「片手でいい」

包帯に巻かれたその右腕を、白と黒が支配する秩序ある鍵盤に置く。

「音階、解る?」
「そんくらいは解る」
「触ったこともないのに?」
「本で読んだ」

本?音楽の教科書のこと?
グラムの言葉に些か疑問はあったものの、音階は確かに解るらしい。

「ド、ソ」

私が口にする音階を、グラムはゆっくりと弾いていく。
ゆっくり過ぎて曲には聴こえないけど、まぁ仕方ない。

「覚えた?」

あまりにも真剣な横顔に、笑いながら尋ねてみる。まぁ、冗談だけど。
たった一度おさらいしただけで、ピアノを触った事も弾いたこともない初心者が一曲弾けるようになるとは思わない。

「覚えた」

――が、私の意地悪心はグラムの完璧な演奏で完全に萎えてしまった。

「……嘘でしょ?」
「記憶力には自信がある」

あ、そう。
そうして煙草を奪われたミイラが一呼吸。もう一度練習とでもいうように奏で始めた。

「……爪、いてぇ」

鍵盤を押すときに力を入れるせいだ。爪も割れているし、指先にまで、傷はある。
それでも、爪程度の痛みならまだマシだろう。

(この前までそんな小さな傷、気付かないくらい酷かったんだから)

なんとなく虚しくなって、煙草を咥えたまま椅子の上で膝を抱えた。

「後で切ってあげるよ。見てるこっちも痛い」
「……引っ掻かれたしな」
「それに噛まれたしね」

そう言ってわざとらしく右肩をさすれば。

「……わりぃ」

ほんと、カワイーやつ。

「弾いてみて」

懇願にも似たそれ。
グラムはさして真剣でもない表情で鍵盤を弾き始めた。
ぎこちなさはあるものの、薄暗い部屋に響くのは確かにピアノの旋律だ。
私は折った膝の間に顔を埋めて、素直に目を閉じた。

男の無骨な指が紡ぐ音。
父と同じ音がする。

(落ち着く……)

父の生前には、欠片も思いもしなかったのに。
そう感じている自分に、心底、驚いた。
どこか朴訥としたボロボロの旋律は、何故か私の渇いた胸に染みて、雨を垂らす。

「おい」
「……ん?」

曲の終盤。
声を掛けられて、今にも眠りに墜ちそうだった意識を無理矢理奮い立たせる。

「寝てたろ」
「……寝てない」
「煙草」
「吸う?」
「灰」
「肺……に、悪い?」
「アホ。灰が落ちてる」

煙草に目をやる。
指に挟まれた煙草は、もう咥えられないほど短くなっていた。

「……寝るか」

ピアノを弾く手は止めず、グラムが溜め息を吐く。
疲れたのだろう。昨日までろくに動けない体だったのだ。
体力が戻ってきていることが嬉しいのは解るが、調子に乗って動きすぎである。

(でも、ごめん)

「最後まで、弾いて」

もうちょっとだけ、無理をさせても良いだろうか。

「こんなガタガタな曲、聴いてて楽しいかよ」
「……だから面白いんだよ」
「ヤな女」

悪いね。歪な音楽。けれど弾く手は、淀みない。

――ねぇ、グラム。

「……あんたのピアノ、好きだよ」

無駄に飾りたてない、優雅と言うより馬鹿がつくほどに、実直な、音。

「あんたが来てから、留守電も、あんまり聞かなくなった」

私を慰める、唯一の声を。

「録音だろ、アレ」

少しだけ、ピアノの曲調が変わる。
ほんの少し。
私が都合よく受け取っているだけかもしれない、変化。

ほんの少し、優しく。

「知ってたの」

拾った猫は、死にかけのくせに耳が敏い。

「同じ留守電、何度も何度も聞いてりゃな」

残響などなく、旋律はぱたりと終わりを迎えた。
死んじゃったみたいに。

「……よし、合格」
「なにがだよ」

演奏を終えた奏者は苦笑を浮かべて、新しい煙草を手に取った。
咥えられた煙草にどこぞの飯店で貰ったマッチで火を灯ける。
薄暗い部屋に柔らかな赤が滲み、少しだけ目に沁みた。

「ふたりが死んでからずっと、習慣化しててね」

ぽつり。訊かれてもないのに、言い訳。

「……寝ようぜ」

それを聞いていたのかいなかったのかよく解らないグラムが痛みに顔をしかめながら立ち上がる。
その頼りない体を支えようと手を伸ばせば。

「いや、……いい」

手出し無用を言い渡された私は当然、動きが鈍いグラムより早くソファに着いた。
傷だらけの体は、それより倍の時間をかけて、それでも一人でベッドへと辿り着く。


「……おい」

ベッドに手を付いて金色がこちらを振り向いた。
落ちていたシーツを足で引き寄せながら適当に応えれば。

「今日もソファかよ」

――笑える。

「それ、喧嘩した恋人が言う台詞みたい」
「茶化すな」

(……茶化してない)

「も、良いから寝なよ」

やめてグラム。
私、もう眠いの。夢見る前の口喧嘩なんて、よろしくない。

「寒いんだよ。ベッドで寝ろ」
「やだよ……」

あんたもう元気になったじゃん。
甘えたなんてらしくないよ、グラム。

「ベッドに寝るのが嫌なのかよ」
「かなり」

正確には、あんたの隣で眠ることが嫌。
今まで目を逸らしてきた全てを目の当たりにしそうで。

「おい」

しつこい。
あんたは明日一日中寝てられるかもしれないけど私は仕事があるんだよ。いい加減にしろ。

「痛くてベッドに上がれねぇ」

無視してたら金色の眉が寄った。

「クソアマ」
「床で寝れば」

このクソッタレ。舌打ち。
ベッドを支えにしたまま固まっているグラムの背中を、乱暴に押し投げてやった。

「……ぐぁっ」

枯れた喉が呻く。もっと痛がれ。

「ほら、早く仰向けになりな」

震える体を冷ややかに見下せば。

「……テ、メ、殺す」

ミイラが胸を押さえたまま唸ったって怖くない。痛ましいヤツ。

「やってみなよ」

その襟首を掴み上げ、痛みに震える体をシーツの上で反転させた。
呻き声が聞こえる。

「お大事に」

ベッドに仰向けになった憐れな怪我人に吐き捨てる。
そのまま踵を返して、ソファへ向かおうとしたら腕を掴まれた。肩越しに振り返り見たグラムは、クソ生意気な顔を浮かべている。

「ここで寝ろ」

互いの眼球にぴんと張られたピアノ線のような視線が突き刺さる。
それはどこか強く逞しく艶やかだけれど、私にはそんなもの、寂しいものでしかない。

「そんなに、私と寝たいわけ?」

グラムは答えなかった。その傷だらけの腕に力を込めるだけでも辛いだろうに。

「……来いよ」

灰緑の眼。
金糸の隙間から、私を見据えてる。

――ねぇ、グラム。その目、やめてよ。


「……死んじゃうよ」
「なんで」

だって。

「キス、していい?」
「したいのかよ」

したい。

掴まれた腕を緩く引かれる。首に回された傷だらけの片腕に自ら囚われるようにして身を屈めた。
剥き出しの首に感じる包帯と傷の凹凸の感触にすら、ぞくぞくと粟肌になって煽られている。
至近距離で視界に映る、血の気のない唇。
それを彩る、深い切り傷に、痂。

(あぁ、着実に、傷は癒えている……)

唇が触れ合う寸前、赦すな、と警告代わり。
未だ生々しくある傷を、べろりと舐めた。
痛みに上がる悲鳴を唇で閉じ込めて、疼くなにかを誤魔化すように。
一体、何度目だろう。あんたの悲鳴を飲み込む度、背筋に欲が走る。
止まらなくなりそう。
薄暗い部屋の中、痺れる呼吸音だけが響く。耳が濡れる。

――おかしくなる。
解け合う熱は、慣れた煙草の味がするのに。
ふしだらに下肢が疼く。意識が落ちる、寸前。

(……あ、)

思い出した様に薄目を開けたら。

(イエスのキスじゃ、目は閉じるんだね、グラム)

悲鳴が漏れた。
無意識に傷だらけの胸元を弄っていたらしい。
慌てて離れる。

「……ご、めん」

我に返って、蒼白のまま唇を離す。
ほんの少しの明かりに反射する、互いの濡れた唇に、今の今まで何をしてたか目の当たりにされた気がして、泣きたくなった。
私を見ながら、グラムが舌舐めずりする――じゃ、ない。濡れた唇を、拭っただけ。

(……侵されてる)

「リナ」

グラムから離れて、逃げるようにベッドへと潜り込んだ。

「リナ」

背後に掛けられる自分の名前がうざったい。

「こっち向け」

やだよ、なんでそんなこと言うの。

「リナ……」

向き合うことも出来ないくせに。
耳元に寄せられた声が、とても静かで。

バカ。リナの馬鹿。
飼い主が猫の言いなりになってどうする。

「リナ、……」
「寝なよ、グラム」

もう、寝かせて。



「――ハジと会ったか?」

どこか躊躇がちな言葉に、目を閉じたまま祈る。

「警部が、なに?」

内心、口から心臓が飛び出そうな勢いだということをひた隠しにして。
悪いことなんかなにもしていない。それなのに、この後ろめたさはなんなのだろう。

「……いや、いい。寝ろ」

言葉を濁したグラムを追求もせず、私はほっと息吐いた。

(グラムの口から、あの男が出てきた)

二人はどういう関係なのか。
少なくとも、グラムのあの怪我にしても、昨日の取り乱しようにしても、ボスから聞いたハジの話にしても。
仲良しの間柄ではなさそうだ。

(――あぁ)

そういえば、ハジの前でグラムの名前を出してしまったのだっだ。
猫の名として出した、〝グラム〟、という名前。
確信を持ったか、疑惑の域か。どちらにしても、軽率だった。
ディナーにしても裏があるのは確かだろう。
グラムについてなにか聞き出すつもりなのか。考えれば考える程、明日のディナーは気が重い。

猫は、どうするだろう。