雨が降ると気が滅入る。
息抜きのはずの煙草が湿って不味くなって、逆に苛々するから

――嫌な事ばかり。

空気の汚い巨大な街は、今日も鮮やかに雨に濡れていた。
煌びやかな外見は、内に蠢く醜い虫を隠すためのものでしかない。
混んだ地下鉄は、今日も肉の塊を乗せてトンネルを走る。
地球という体内を糧にする蛆虫だ。

嫌な事ならもう、指折りに数える気にもならない。

雨が降ってるだけでも気が滅入るのに。
会社には遅刻するし、残業させられるし、お陰でピアノの練習にも間に合わない。
昼飯に買ったファーストフードの中にどこの誰の物かも解らない歯の欠片が紛れていた。

有り得ない。

でも有り得るのが、この街だ。
街の喧噪は、いつも私をその汚い腹に納めようとしている。

――なんて、妄想癖過多もいいとこの夢見がちな同僚が言っていた。



「キャジー、そんな所でバカやってると殺されるよ」

私の暮らすアパートメントのある地区は、犯罪者の吹きだまり。

貧乏、不衛生、物騒の三重苦。
汚くて治安が悪くて殺人・強盗なんて日常茶飯事なエリアだってことだ。
私みたいに何も出来ない無力で非力な女が、こんな街で暮らしてよく四年も生きてこれたと、今でも思う。

〝キャジー〟は近所に住む病気持ちの娼婦だ。
仲が良いわけでも、悪いわけでもない。
私のアパートメントに向かう途中にある彼女のアパートメントの階段で、彼女は外から丸見えにも関わらず、どっかで引っ掛けた赤ら顔の白人と燃え上がっている最中だった。

捲られた安っぽいドレスから覗く、派手なだけのショーツ。
弛んだ二の腕が、もっともっとと男の首に絡み付く――。

もう、こんな事にも馴れてしまった自分が怖い。

キャジーは私の忠告も耳に入っていないようで、言葉にもなってない奇声を上げている。
彼女の商売が上がったりなのは、彼女の色気も糞もない声のせいだった。
雨で醜くただれた地面をスニーカーで踏みつける。
なんだか生き物の肉体を踏みつけているみたいで好きじゃない。

好きじゃないけど、嫌いでもない私が一番気持ち悪い。



サァアアアア…。

雨音が激しくなる。
それに促された私は自分のアパートメントへと走った。
走る度に鳴る不快な水音が、本当に不愉快だ。
デニムの裾に泥が跳ねるのも頂けない。

高い建物群に挟まれた道は、幾筋か小さく避け道がありそのまま私のアパートメントへと繋がっている。
赤茶の煉瓦に、黒の塗装がなされた階段が骨のように絡まる、越してきた当初はお気に入りだったその外観は、今日は雨に霞んでまるで墓石のようだ。

嫌な感じ。
歯並びの悪い、口臭も酷い咥内に飛び込まなきゃいけない気分。
私はごくりと生唾を飲み込むと古いアパートメントを全速力で目指した。

――あぁ、嫌な事ばかりだ。

持ち主不明の歯のお陰で昼飯は食べそびれるし、私の働く会社で自殺があったとかで顔も知らない男について警察に事情聴取されるし、地下鉄では肥えたババアに足を踏まれ仕事の書類とピアノの楽譜をバラまいちゃうし、雨も降ってて煙草は不味いし。

それに――それに、あぁ、ジーザス!



日本の言葉で、泣き面に蜂、なんて言葉があった。
そんな風に、嫌なことは立て続けに起こるっていうけれど。

類は友を呼ぶ?
言葉違いは承知だが、同様に嫌な事もきっと自分と同じ臭いを嗅ぎ取って同類に寄ってくるのかもしれない。

だって。
だって、そうじゃなきゃ。

部屋がある五階まで階段を駆け上がった私の目に、鮮明な赤が焼き付いている。

部屋の扉が並ぶ廊下に、赤く大きな塊。
生臭い血臭が、私の気分を更に悪くする。

「……おえ」

死体、だ。
こみ上げる嫌悪感は、唾液となって咥内に広がった。
階段の手摺りに支えられるように、私は立ち尽くすしかない。治安が悪い街とはいえ、こんな至近距離で死んだ人間を見るのは初めてだ。

手とか足とかなら見たことあるけど、全身、は。

長く細い躰は傷だらけのただの肉になり、溢れる赤が滲んでいる。

濡れてる。
血液じゃない、…水だ。

この死体、外から入ってきたんだ。

――入ってきて、ここで力尽きた。



私の部屋の前に転がる死体の周りには血混じりの水溜まり。
恐る恐る近づく私の体重に、それがゆうるりと弧を描いた。

――きたない。
血と水に濡れ、泥や小石が傷口に噛みついている。

見てて、痛い。

「け、警察……」

バックから携帯電話を取り出す。震える手が携帯を掴んだ、その時だった。

「ぐ、ぁ」

真下で呻いた声に、びくり、情けなく肩と心臓が思い切り跳ねた。

生きてる。

ゴクリ。
握った携帯を手離して、死体になりかけている男の近くに膝を付いた。
不快な臭いが、濃度を増す。

「……、ねぇ」

死体じゃないなら。
ただの肉塊じゃないなら。
怖さと不快感はマシになった。ほんの慰め程度ではあるけれど。

跪き見れば、柔らかそうな長い金髪は血で束になり、血と泥の塊が付着した体は醜く汚れ、嘔吐感がこみ上げる。
これで本当に生きているのか疑ってしまう程に無惨だ。

「ハ、っ……」

なのに唇は微かに震え、苦しそうに呼吸していた。
極力傷のない箇所に触れれば、指先に霜が下りたように冷たい。

今生きていても、そのうちきっと死ぬ。

面倒事はごめんだ。例え人助けの名目であっても、無視してしまいたい。

何故、私の部屋の前で力尽きてしまったのか。
隣りの部屋の前に転がっていたのなら、無視してそのまま知らん顔したのに。

なんで、よりにもよって私の部屋の前に。
あと数メートル、頑張ってほしかった。


「ねぇ」

傷ついた身体を揺さぶる。掌に砂利と、ねっとりとした血と水の感触。
必然的に眉が寄る。気味悪がってる場合でもない。

「……し、ぬ、」

男が呻いた。
そりゃ死ぬよ。こんな傷で、死んでない方がおかしいんだよ。


「ぃ、……てぇ」

男の低く呻いた声に何故か、ゾクリと肌が粟立つ。

「ねぇ、警察呼ぶけど、先に救急車呼んだ方が良い?」

聞かずに呼んでやればいいものを、わざわざ口にしたのは、スラム街ならではの「思いやり」でもある。
死にかけている男は、荒く息を吐くと閉じられていた瞼を小さく開けた。

「どっちも、っ、呼、な」

目つきが良いとは言えない男は、私を一睨みしてまた目を閉じる。

なんだ。

「元気そう。放置してもいい?」

というか、そうしたいのだが。