「あ」
鏡の前に立って、そこで初めて、傷を消毒するための薬をベッド脇に置きっぱなしにしていたことに気付く。
(消毒……)
一瞬くらいは迷った。
「テメ、服着てから出て来いよ」
下着のまま寝室に戻った私を見て、グラムの第一声。
「なに期待してんの」
「してねぇ」
枕元に立ち、置いてあった消毒液を手に取る。
「警戒しろよ」
グラムの低い声に、私は思わず嘲笑を吐いた。
さっきまで散々拒んでいたくせに、馬鹿馬鹿しいったらない。
「なにをさ」
「俺を」
「警戒する価値もないでしょ」
今のあんたは、ただの置物だ。
「……殺すぞ」
そしてほんとに、バカ。
出来もしない癖に。
そのまま手鏡を手にグラムに背中を向け、傷の場所を探る。
とりあえず視認できる肩の傷に消毒液を吸わせたガーゼを押し当てた。
染みる。ガーゼ越し、歯形の凹凸に盛り上がった皮膚が気持ち悪い。
さすがに自分自身の傷にはそそられないらしいので、安心した。
(――グラムの傷にそそられていたんじゃなくて、傷付いたグラムにそそられていたのか)
それがどう違うことなのか、私には解らないけど。
「……痛むかよ」
拗ねたような口調で気を遣う。
ほんとガキだね、あんたって。
「痛まないわけないでしょ」
「……かわいくねぇ」
「死ぬほど痛い」
「うぜぇ」
「死ぬ」
「てめ」
手鏡越し、私の肩に伸びてきたミイラの腕。
「ん」
髪を引っ張られた。ねぇ、傷が痛むんでしょう。ぎこちないよ。
私が痛くないように、優しく髪を引き寄せたりして。
「背中、消毒してやる」
「手、使えるの?」
「昨日よりマシだ」
髪を優しく掴まれたままベッドへと乗り上げ、グラムに大人しく背中を見せた。
「なんかさ」
「んだよ」
「変な気分だ」
「……どんなだよ」
ただの消毒。
背中に触れる、歪な指の感触に。
愛撫みたい、なんて口にしたらまた爪を立てられるだろうか。
「……リナ」
「ん?」
背中、皮膚の裂け目。
染み入る消毒液に、私は肩を竦ませた。
「お前、さ」
「ん」
真剣な声。
だいぶ弱まった雨音の間を縫って、僅かな緊張感。
「誰かに、俺のこと」
あぁ、そういうこと。
「話してないよ」
あんたみたいな怪しすぎる男を拾ったなんてバレたら、今まで私が築き上げてきたモラルとパブリックイメージが総崩れだ。
そう言う私に、グラムは安堵したように溜め息とも笑いともとれる息を吐いた。
――ねぇ、グラム。あんた一体なにしたの。なんでそんな怯えてるのさ。
「……寝なよ」
疑問も欺瞞も何もかも飲み込んで、自ら匿った男に言った。
鋭利な爪を立てないよう、殊更慎重に背中に触れるがさついた指の腹が心地良い。
「……お前、引っ掻き傷が似合うのな」
ぽつり。撫でられながら。
「……男じゃあるまいし」
「付けるのも付けられるのも似合う女なんてそういねぇだろ」
「引っ掻いてあげようか?」
「殺す気か」
「まさか」
生かしといて殺すなんて、そんな大それた真似しないよ。
つけあがるから言わないけど。
「酒……」
「金取るよ」
「飲まねえと死ぬ」
「じゃあ死ね」
唸るグラムに向き直り、傷を避けてお休みのキスをする。
「ママになった気分」
「口のわりぃ母親だな」
かわいくないな。
「口の悪い子」
お仕置き、とばかりにキスをした。
お休みのキスなんて足元にも及ばないような。
「お、ぃ」
抵抗を飲み込む。
嫌がるくせに、反応良く返したりするから止められないんだよ。
互いに圧迫し合った唇の歪みすら心地良い。グラムの金色に、無意識に指を差し入れて。
柔らかくて、暖かい。
調子に乗って耳朶の裏を撫でる。
小さく反応する傷だらけの体に、私はまた笑った。
笑った事が気に入らなかったのか、グラムの手が私の肩を抑える。
――まずい。
「……ごめん」
あぁ、もう。
重度の怪我人相手に本気になって夢中になって、殺すところだった。
半ば焦って身を引いた唇の端で、唾液の糸がぷつりと切れる。
「リナ」
そのままベッドから降りた私を、グラムが呼ぶ。呼んで欲しくない時に限って。
「なに」
「……寝ようぜ」
グラムは痛むだろう腕で自分の隣りをぱんぱんと叩いた。
「はあ?」
やめてよ、グラム。
私を試す気?
「寝ようぜ」
「なんで」
「昨日、寝付きが良かった気がすんだよ」
「どんな気だ」
「来いよ」
(……やだよ)
グラムの眼。睨むように私を見てる。
――あぁ、なんて生意気なゴミ、もとい猫。