「リナ!」
あぁ、やめて。その怒鳴り声、傷に響く。
「へーい……」
「呼んだらすぐ来い!もう一度!」
(このハゲ親父)
真新しい傷の疼痛に眉をしかめながら、だらりとゾンビのようにデスクから立ち上がる。
そのままふらふらとボスのデスクまで行き、ボスを目の前に背筋を伸ばして直立不動で立った。
「ヤーサー!」
「よし!」
無駄に熱血なこの男が苦手だ。
実直で誠実な人柄は上司として信頼出来るのだが、少々熱い。熱すぎる。
元軍人だかなんだか知らないが、軍隊のルールをしがない一般企業に持ち込まないで欲しい。
「これ、本社の方に届けてくれ。至急だ」
バサリと音を立てて資料の束がデスクに広がる。
「……運びはJ.Jの担当じゃ」
「ヤツは休みだ」
「だからなんで私が」
「上司命令」
(……クソッタレ)
「なにか言ったか」
「いいえ」
「返事は!」
「イエッサ!」
「よし行け!」
(――くたばれ)
結局資料を手に、徒歩二十分かかる本社へと向かうことになった。
このご時世に、何故人間様の足を使って紙媒体を運ぶのか。
(メールで送れよ)
傷が痛む体を動かしたくなかった。よりによって、どうして今日?である。俄然やる気が出ない。
雨は弱まりはしたが、まだ微かに注いでいる。
湿気た煙草を咥え、ビジネスマンが溢れかえる通りを本社へと足早に向かった。
(痛い、不味い、痛い)
呪文のようにそれらを唱えながら、頭の中はベッドで眠る怪我人のことばかりだ。
――ハジ。
人名だろうか。
魘されながらの言葉だ。正確に発せられたとも思えない。
でも、何故か聞き覚えがある。
『ハジ』
何も語ろうとしない傷だらけの男が発した、唯一の断片。
(ハジ、か……)
書類を渡しついで、本社の知り合いと世間話で時間を潰してから支社へと引き返した。
その途中。
「う、ゎ」
私のオフィスビルと通りを挟んで向こう側の銀行。
入り口付近の人だかり。それに混ざる複数の警官。手には拳銃が握られている。
――強盗だ。
見る限り銀行に立てこもっている。行員も客も運が悪かった。
(丁度いいから一服しよう)
いい口実ができた。
細い路地に入り込み、壁に凭れながらそれを眺める。
犯罪に興味はないが、仕事をサボれる理由が出来るなら話は別だ。
大きな窓が連なる銀行は、中の様子が丸見えだった。黒いマスクの男達が銀行員のこめかみに銃を押し当てている。
強盗犯は四人程。ここから見える客らしき人間が五人、プラス銀行員が八名くらいだろうか。
(銀行強盗か)
小さな銀行とはいえ、都市のど真ん中だ。逃げられる訳もないだろうに、よくやる。
(マスクなら別だけど)
緑色の顔に黄色いスーツの男を思い出す。
頭の悪い強盗だ。面白い展開も期待出来そうにない。
進展しない事件に飽きて仕事に戻ろうと煙草を踏みつけた。その時だった。
「ハジ警部!」
――〝ハジ〟
グラムから漏れた唯一の単語が、たった今目の前で叫ばれた。
傷の事すら頭からすっ飛んで、〝ハジ〟と発せられた方向へと首を向けた。
無理に捻った肉体に傷が歪む。
こんな小さい傷ですらこんなに痛むってのに、あの男の痛みはいかほどのものだろうか。
(……バカだな、私も)
グラムが口走った〝ハジ〟が、〝ハジ〟という言葉であるかどうかも定かではないのに。
そうして視線を向けた先には、雨に煌めくコルベット。
それで乗り付けたらしい、白いシャツに緩い臙脂のネクタイ、ブラウンの背広を羽織った茶髪の美丈夫。
あ、やばい、好み。
「ハジ警部!」
――あの男が、ハジ。
(ハジ警部?)
やはり聞き覚えがある。グラムの〝ハジ〟とは別のところで。
「あ」
ニュースで見たことがある。ニューヨーク市警の敏腕警部とかなんとか。
難航していた凶悪殺人事件を解決したとかでインタビューを受けていた覚えがある。
その姿がやはり好みで、テレビカメラを前に喋りなれている感じが印象的だった。
(――あのハジ?)
スーパーマンだなんだと騒がれていた男だ。
その敏腕警部が、こんな小さな銀行強盗事件なんかにわざわざ?
それとも、事件の大小に正義は関係ないのだろうか。
残念ながら、通りひとつ向こう側の話し声は聞こえない。車両規制もあっただろうし、先程叫んだ男の声も相当な大きさだったらしい。
ハジは先に待機していた警官達となにやら話をしている。強盗犯について詳細を聞いているのだろう。
やがて携帯電話で何事かを話しながら、なんとそのまま銀行内へと入っていき、三十分もしない内に出てきた。
――犯人達を引き連れて。
思わず口笛を吹く。
固唾を飲んで見守っていた野次馬達も、ハジの鮮やか過ぎる手腕に惜しみない拍手を送っている。それに笑顔で答えるハンサム。
警部と言うより交渉人のようですらある。この二つにどんな違いがあるのかよく知らないが。
ハジとグラム。
接点があるかどうかも解らない。
気になる所ではあるが、考えるだけ無駄だ。
(大体、グラムの事を詳しく知った所でなんの意味もない)
得もないし損もない。
私はただの拾い主で、グラムはただの拾われの怪我人だ。
確かに魅力的な男ではあるが、あのハジという男の方が好みだ、顔は。
「仕事……」
あぁ、バカらしい。
こんなどうでも良いことに頭を悩ませている暇はない。
寝ぼけた末の譫言に振り回されるなんて、相当なバカだ。
「――遅い!」
案の定、オフィスに戻った途端、喝が飛んだ。
「……すみません。強盗事件に巻き込まれてました」
「下手な言い訳は良い。さっさと仕事に戻れ!」
決して下手な言い訳ではなかったが、多少盛った負い目もあるため素直に従う。
下手に反抗して今日も残業をプレゼントなんてごめんだ。
そしてなんとか定時で上がった帰宅後。
私は何故か、にらめっこをしていた。
「グーちゃん」
離乳食を盛った匙をグラムの口元に押しつける。
「……殴るぞ」
「その身体で?」
力の限り唇を閉じて睨んでくるグラムを私も睨みつけながら。
不毛過ぎる戦いだ。
「食べなよ」
「嫌だ」
今日は新発売の離乳食を買ってきたのだが、やはりグラムの口には合わなかったらしい。
仕方ないので、シチューに浸したパンを食わせた。
「どう?」
消化器官にも異常を来していると思ったが、案外すんなり喉を通ったらしい。
「口ん中がいてぇ」
「じゃあこっち食べ」
「くたばれ」
「あんたね……」
仕方なしに、グラムの為にパンをシチューに浸し、私が離乳食を食べた。何故だ。
「そういえば」
「んだよ」
「今日、強盗に遭ったよ」
「はぁ?」
あ、信用してない顔。
「嘘吐け」
「こんな下らない嘘吐かない」
「どーでもいい」
可愛くないな。
命の恩人が強盗に遭ったって言ってんだから心配する素振りくらい見せなよ。
まあちょっと……いやだいぶ盛ってるけど。
私は床に転がったチャンネルを拾い上げ、テレビを点けた。
「ほら、これ」
丁度、〝本日の出来事〟の時間。
タイミング良く、私が傍観した(だけの)銀行強盗の話題が流れていた。
「こんなちいせえ事件、なんでこの時間帯にニュースでやってんだよ」
私の言った通りだったことにバツが悪くなったらしい。
ぶっきらぼうに吐き捨てて、子供のように唇を尖らせた。
その態度はムカつくが、グラムの言うことにも一理ある。
一日に大小何百件と起こるだろう事件の中で、何故こんな小さな、しかも無血の事件をこの時間にニュースが取り上げたのか。この現代、取り上げようと思えばもっと派手な事件がありそうなものだが。
狙われたのが銀行だから?
「あ」
強盗事件を、と言うより、国民のヒーロー、ハジ警部の活躍を取り上げたのかもしれない。
けれど、私の予想を裏付けする前に次のニュースへ移ってしまった。
(あーあ)
残念。
「……おぃ」
パンを喉に詰まらせながら、グラムが掠れ声を出す。
「あぁ、待ってて。ミルクがいい?」
グラムの動かない掌にパンの欠片を乗せて、椅子から立ち上がる。
「ちげぇよ」
見下ろすグラムは私とはあさっての方向を見つめ、小さく何かを呟いていた。
なんて?
「……怪我は」
「は?消毒ならさっき、」
「……ちげえ」
こっち向いて喋れ、とは思うが、合点がいった。
――あぁ、そういう事ね。
「グラム」
そっぽを向いたまま微動だにしない男の顎を掴む。
勿論、傷を痛めないよう慎重に。
「心配してくれたわけ?」
「……別に」
逸らされていた男の視線を強引にこちらへ向かせると、深い灰緑のそれとぶつかる。
深く煌めく瞳は、無駄に綺麗だ。猫みたいな瞳の色。
「グラム」
「んだよ」
――ねぇ。
「キスしたい」
呆れたような灰緑が、私を誘う。
「ざけんな」
「やだ」
「はあ?」
「我慢出来ない」
返事を聞く気はなかった。
渋る男に選択肢なんか与えてやらない。お前の離乳食代、誰が出してるとおもってんの。
互いの鼻頭をくっつけると、長い金の睫毛がぱちりと瞬く。
「ん」
塞がりかけた傷に歪められながらも、柔らかい唇。
動かない痛々しい痩躯を押さえ込めば、小さな悲鳴が口の奥に飲み込まれた。
薄目を開けてグラムの表情を盗み見みようとして、けれどぶつかったのは、相変わらず目つきの悪い、灰緑。
いつもそうだね。キスでも口移しでも、絶対に目を閉じないで。
(――私を睨み殺そうとする)
馬鹿だね、グラム。感じちゃうよ。
唇の奥に吸い込まれる悲鳴にすら感じるなんて、どんな変態かと自分でも思う。
でも、感じちゃうんだよ。
全身で感じて、本気になってしまう。
「……グラム」
唇を重ねたまま喋ると、傷に触れたのか近距離の柳眉が顰められた。
「……んだよ」
「抱きたい」
「殺すぞ」
「この体で?見物だね」
また口付ける。
――深く、深く。
行為の始まりを示す愛撫と同じように。
好き勝手に舌を絡めていると、傷付いた腕が私とグラムの間に割り込んできた。
傷だらけで、痛々しい。
気の毒なそれで、不器用な愛撫でもしてくれるかと思っていたら、唇を噛みつかれた。
「やめろ」
――どうして。
見下ろした影に染まる、排他的な緑。手負いの獣。
牙を剥かれることは承知していたけれど。
「……どけよ」
言われて従ったわけじゃないけど、私は上体を起こしてグラムから離れた。
それでも警戒するように、猫は私を見てる。
――ねぇ、それは。
「キスだけにする」
誘ってるようにしか、見えない。
「だから、させて」
「なんだっつうんだよ」
「解んない」
ただ、あんたが可愛くて可愛くて仕方なくなっちゃったから。
「……まずは風呂に行け」
意外な返答。
不機嫌。
なに、拗ねてるわけ?
「におう?」
「ちげぇよ……」
じゃあ、なに。
「シャワー浴びたら、キスしていい?」
「欲求不満かよ」
「かもしれない」
問われても、あんたが納得するようには答えられない。
(……私ですら、解らないのに)
そしてそのまま灰緑から逃げるように浴室へと向かった。
シャワーの最中、背中と肩に傷があったことを思い出す。めちゃくちゃ染みる。
「バカだね、私も」
強引に押し付けたキスなんかで舞い上がって。
自分で思っていたより、私はずっと単純な人間だったらしい。
(……やめなよ、リナ)
あいつはたまたま部屋の前に転がっていただけのゴミだよ。
ラベルも表示も剥がれた、訳の分からないゴミ。
大きくてちょっと邪魔だったから、拾っただけ。
ねぇ、リナ、やめなよ。