父の顔が更に苦痛で歪み項垂れた。
頭が真っ白になりながら俺は必死に頭を動かしていた。そこに耳をつくような耳障りな歓声が入ってきて、現実に戻される。戻されると怒りが一気に体に熱を与えて駆け巡っていった。
「…んで……」
ーーハァ?
俺の呟きに気付いた人間が聞き返してくる。歓声、聞き返す声、匂い…。全てが汚らわしく吐き気がした。
「…なんであんな幼い妹の命を平気で奪える!?俺達…少なくとも妹はお前らを殺してないのに!!だからお前らは弱くて汚らわしいんだ!!!」
勢いに任せてありったけの暴言を吐く。それではあいつらと同じかもしれないが、それでも言わずにはいられなかった。
…エリーと母の死に際の表情を見れば。父が項垂れるなんて見たことがなかったのに。
「お前らなんてぶっ殺してやる!!この世界のゴミめ!!死ねーー」
大声で暴言を吐いていた時、顔に向かって何かが投げ込まれ、液体が宙を舞った。
その液体が両目の眼球に触れた瞬間、目を焼かれたような激しい痛みが襲ってきた。
「ッ!!アァァ!?」
一気に視界が奪われ、目からはジュウという溶けるような、焼けているような音が聞こえてきた。
ーー黙れ!バケモノの分際で!どうだ!?塩酸と銀を入れた薬の味は!
「うっ…グゥ…!!」
流石に痛みで呻いた。反射的に目を抑えると手にも痛みが走り、ぬるりとした感触が手についた。
見えないが出血しているのだろう。
俺は回復力はある方で普段なら人間に受けた位の傷ならすぐ回復するが、今回はそうはいかなかった。いや回復は通常通りにされているのだが傷がついたのは眼球だ。体の中でもデリケートであるその部分に大きなダメージを受けたので直ぐに辺りを確認できるほどの視力は回復しなかったのだ。
「ヤナッ…!」
父の声がかすかに聞こえたが激痛に呻くことしかできなかった。
ーーさぁて!あとはこの餓鬼を殺して…この男の方の吸血鬼も殺せば安心だ!
視界が奪われるとそれだけそれ以外の感覚が敏感になる。聴覚、嗅覚、感触…。見えない分、人間達の悪意が感覚となって襲ってきた。
…あぁ。俺も殺されるのか。
諦めかけたその時であった。
ーーガッ!
「…?」
人間のうめき声に少しずつ光を認識し始めた目を微かに開く。
フワリと体が誰かに抱き抱えられて浮き上がった。
誰だ…?ここには父さん以外は人間しかいないはず…。
浮き上がって移動した風圧で目に大量についていた塩酸と銀が流れ出たのか一気に光が戻ってくる。
地面に降り立つ感覚が体に伝わった。
「…ジルッ……!」
近くで父さんの声が聞こえた。
薄っすらと目を開くとようやく景色が見え始めたのもあり、誰が助けたのかは分かった。
「ジ…ル……」
「旦那様…!坊ちゃん…!大丈夫ですか!?」
まだぼやける視界に移ったのは用事があって外出していたジルであった。
ガチャリと父さんを拘束していた鎖が切れる音が聞こえた。
「奥様…お嬢様……。申し訳ございません…。私が居れば……」
近くに転がる2人の死体を見たジルは辛そうにそう言ってくれた。まだ薄っすらとしか見えないが、ジルが責任を感じているのは嫌という程伝わってきた。
父を見ると未だに項垂れて動かない。
ーーまだ仲間がいやがった!
ーー殺せ殺せ殺せー!
人間達が再び武器を構え始めた。
立ち上がったジルは…今まで感じたことがない程の殺気を出していた。その殺気に寒気を覚えるくらいだ。
「貴様ら…楽に死ねると思うな…!1人残らずミンチにしてその辺の魔物どもの餌にしてやるぞ…!!」
目を見開いて静かに呟くジルの殺気は更に冷たさを増した。
そのまま人間達に突っ込もうと足を後ろに下げた時だった。
「ジル!」
「!」
父の声にジルは動きを止めた。
「来てくれて…ありがとう…。だが、ヤナを…息子だけでも…助けてくれないか」
「父さん…?」
「旦那様はどうされるのですか?」
「俺は良いから…息子を助けてくれ…」
項垂れたままそう言う父にジルは答える。
「ええ。それはもちろんです。しかし私は…貴方様に救われた!だから貴方様もーー「いいから!」」
今まで聞いたことのない怒鳴り声にジルも言葉を失った。
「…悪い。これは俺のワガママだ…。俺は…今まで…出来るだけ人間達の命を奪わずに…敵対してても…それでも相手に敬意を表することを意識してきた…!仲間に馬鹿にされても…それでも同じ命だと……だが!!」
始めて父が顔を上げた。
その表情は…一生忘れないだろう。
涙を浮かべて憎悪に燃える父の目を。
「結果がこれだ…!!愛する妻と娘の命を…弄んで殺した!!!俺は許すことができない…!!こいつらを…無惨に引き裂いて食い殺さないと…気が済まない…!!!!」
「しかし…貴方様はお怪我が…」
「怪我などどうでも良い…何かの為にとアレを持ってきたからな…」
「!まさか…!美酒ではなく…純血の銀血酒(ぎんけつしゅ)ですか!?いけません…!今そんなものを飲まれたら…!」
「覚悟の上だ!だが…この手でこいつらを殺してやらなければ俺の気が晴れない…!」
あまりの気迫に俺もジルも言葉を失った。
「…ヤナ」
不意に名前を呼ばれて体が跳ね上がる。
「今から俺がすることはは…吸血鬼の恥だ。俺は親失格だ。それでも…こいつらだけは許さん。だから…俺のようになるな。強く生きてくれ…お前だけでも…!そして…これから俺がなる姿を…忘れるな。今から使う…さっき使った物とは違う吸血鬼秘薬などと呼ばれている物の代償を」
マントの下から、先程見た物とは違う銀色のボトルを出した。
「まさか…それを全てお飲みになるつもりですか!?」
ジルはそれの正体を知っているのか驚きを隠せない声色で聞く。
「このぐらい飲まんと…今の俺の体では全員を殺せん…!飲んだら…ヤナを安全な場所へ…頼むぞ…ジル」
そう言うや否や瞬時にボトルのキャップを開けて口をつけた。
「あぁ…!そんな…」
悲痛な声でジルは呟いた。
口の端から垂れているその赤黒く…どこか銀を溶かしたような色の液体からは血の匂いと鼻をつくような銀の香りがした。全てを飲み干して父は乱暴にそれを地面に投げ捨てた。
「行けッ…!意識は…保てん…!!ヤナ…すまない…!!アイ…してる…ゾ…!!」
父の口から聞いた意味のある言葉はこれが最後であった。
直後。雄叫びを上げて父は吠えた。
「ッ…!坊ちゃん失礼します…!」
再び抱き抱えられて一気に空中に体を持ってかれた。
「父さん…!」
見えづらい視界に移った父は…父の姿をした別の魔物に変わっていた。
爪は猛禽類のように長く伸び、口は耳の方まで裂けてその口からは長く伸びた犬歯が見えてきた。
最早うなり声のような雄叫びしかあげなくなった父の背からは太古昔の吸血鬼の様な蝙蝠羽が生えてきた。
その姿に人間達が狼狽えながらも父の方へ向かっていった。
数が多すぎる…!このままでは…!!
そう思ったが、風邪を切る様な音と共にその群の後ろに父が片手でを伸ばした状態で立ってきた。
ーー何……
見失った人間達が後ろを振り向こうとした瞬間、その視界がぐらりと曲がった。
そして。
ーーブシュゥゥゥ
父がいた所から着地した地点の間にいた人間達の首が全て跳ね上がっていた。そこまでの時間は俺がジルに持ち上げられて屋根の上に着地する僅かな時間と同様であった。降ろされて俺は唖然と父を見ていた。
「父さん……」
俺が知ってる優しい父の姿はもう既に消えていた。
その後は簡単であった。先程まで歓声や雄叫びを上げてきた人間達の声が悲鳴に変わり、暴行をしていた男だけではなく、付いてきた女、子どもにも同じように無差別に虐殺が行われただけだ。
視界が少しだけ鮮明になってきたのもあり、俺は動けずにその虐殺を見ていることしかできなかった。
朝日が薄っすらと見え始めた頃には夥しい程の人間達の死体が積み上がっていた。
こうしてクローディアの両親、母さんとエリーの犠牲、父の暴走という代償を払って…この事件は幕を下ろしたのだった。

