今でも覚えている。
あのとき、バックミラー越しに私を見ていた嶌田の表情。

 
馬鹿みたいに困惑して、あたふたして。
でも、黙って自分の胸ポケットからハンカチを取り出して、私を見ずに渡してくれた。

 
受け取ったハンカチは、それはもうしわくちゃで、でも洗濯はきちんとされていたみたいで優しい石鹸の香りがしていたことも覚えている。

 

次の日、洗濯してアイロンをかけて私はハンカチを嶌田に返した。
驚いた顔で手にした嶌田は、そのハンカチを大事そうに胸ポケットに閉まっていた。


 
たった、それだけのこと。
一度涙を見せただけ、それだけで次の日から嶌田の態度は激変した。
その忠実ぶりに両親ですら驚き、それで感謝して好待遇になり今もなお、私の運転手として仕事をしている。

 
兄に至っては、高校卒業までに三度も運転手が変わったのに。

 
私も特に文句はなかったから、ずっとこのままでいた。
でも、余計な会話は交わさなかったし、あれ以来一時たりとも気の緩みを見せていない。

眠るのは、気の緩みに入るのかもしれないが。


 
静かなエンジン音のなか、ブレーキもアクセルもゆっくりしかしない運転にさらに眠気を誘われながら、短い旅路へと私は瞼を閉じた。