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午前中のリハーサルは、予定より30分早く切り上げられた。
特に調整を要する部分がなかったからでもあるけれど、卓也の体力を心配した指揮者・井上の采配でもあった。

卓也は、案の定、立ち上がった途端に立ちくらみを起こしてすっころぶ始末。

こいつ、また夕べも寝ずに弾いていたな。
日本を代表する指揮者である、この私の指示を無視して。
あぁ、本当に、今夜はどうなることやら。
もし彼が失敗したら、彼の進退だけでは済まされないだろう。私の名前まで傷がつくというものだ。

春樹に抱えられるようにして楽屋に戻る卓也の後ろから、指揮者・井上はチェロを抱えてついていく。

なんでこの私が、若造の荷物持ちをせにゃならんのだ・・・。

ちょうど島田幸一と由紀子が、到着して楽屋に入るところだった。
幸一は、なぜか二人に付いて来た桜庭医師に車椅子を押してもらっている。
小さな傷は目立たなくなってきたものの、右肩のテーピングと足の包帯が、服の上からでもそれと分かるほど分厚く巻かれていた。

「どうでした?リハーサルは」

「そりゃあもう、バッチリですよ」
指揮者・井上は肩をすくめて、言葉に言外の意味を添えた。

-同じ事を本番でできさえすれば、バッチリですよ。

「ほら。水を飲め、水を」
春樹から半ば強制的に水を飲まされた卓也は、少しだけ落ち着きを取り戻してイスに腰を下ろした。
まだ顔色が青い。
思いつめたような表情で、床の一点を見つめている。

そんな様子だったから、卓也が次の瞬間に放った一言に、そこにいた全ての人は耳を疑った。

「あの」

卓也が口を開いた。

「どうしても行きたい場所があるんです。本番までに必ず戻りますから、行かせて下さい」