彼女は笑って、歩み寄ってきた。伸ばされた手が、白い人差し指が、唇を撫でてくる。

「ただ、君の唇を奪いたいだけ」

「……女の子のセリフじゃないね?」

「そう? ……ふふ。そうかも。私ね、大人になりたいの。正確には、男を手玉に取って高笑いする悪女にね」

「だから、僕を食べようって?」

「かもしれない」

ふざけてるなと思った。僕は目立たないほうだ。おしゃれとは言えないだろうメガネをかけているし、十六年と八ヶ月の人生でまだ、髪にワックスをつけたこともなかった。

からかわれているんだ。こんなおかしなことを言い出す女の子と、だれもいない教室に二人きりっていうシチュエーションからして、妙だ。きっと、閉まっているあのドアの向こうには彼女の友達が控えていて、僕がその気になった途端飛び出し、笑い者にするつもりなんだろう。

彼女は大方、じゃんけんにでも負けたんだ。

「僕、忙しいから帰るよ。じゃ」

横をすり抜けると、袖が掴まれた。強い力じゃない。でも僕の足は止まる。

「後悔するよ」

「しないよ」

「するよ。君は今日のことが忘れらんなくなる。私を目で追いたくなる。そうして恋に落ちて、あの時キスしていればって思う」