この日だけは視界に何も入らない。

ずっと同じことを繰り返し考えていたから。

“どうして、夏野さんは……”

左斜め下を見ながら歩き、思う。

“人をからかって楽しいの?”

どんどん、歩く速度が落ちていく。

周りが見えない。自分の世界に入っていた。



その時――



一瞬、良い香りがした。

香水だ。しかも、記憶にある香りだ。

愛子は一瞬自分の世界から飛び出した。たぶん今すれ違った人だろうと思い、後ろを振り返る。すると後ろには見覚えのある後ろ姿があった。痩せ型で背が高く、少し長めの金髪……。

“え? あの人……”

愛子には心当たりがあったが、たいした気にはならず再び乗り換えの駅へと向かった。

香水の良い香りを放っていた男もふと立ち止まり、ゆっくり後ろを振り返る。すぐに愛子だとわかった。背を向けて遠くなっていく愛子の後ろ姿をしばし見送っていたが、やがて前へ向き直り歩いていった。