キミは聞こえる

 聖華に影を落とす形でソファとテーブルの間、立ち尽くす娘に、「泉ちゃん」と理事長が三度目の正直で声をかけた。
 できるだけ穏やかに、優しく。これ以上、彼女の気を荒立てさせないように。

「一度座りましょう、ね、泉ちゃ―――」

 言いかけて、理事長の目が僅かに見開かれる。

 伸ばした手が泉の肩に触れる直前、理事長は彼女の頬を濡らす一筋の、あまりに痛ましい眺めを見た。

 泉は顔の上半分を覆うように手を乗せて、はあ、と深く長く息を吐いた。

「……だから」

 熱を孕んだ吐息のすき間から、掠れた声がこぼれる。

 見下ろす先、少しは後ろめたさを感じているのか目を合わせようとしない聖華という名の素性のはっきりしない女。

 しかしその姿は泉の目には謙虚に映るのではなくむしろふてぶてしさに満ち、苛々を肥大させるだけだった。

 ならばいっそ開き直られた方が気持ちとしては楽なのか、とちらりと考え、そんなふざけた態度を取ろうものなら即座に始末してくれる、と物騒なことを本気で思った。

「泉ちゃん、おねがい……私の話を聞いて――」
「だから――」泉は真っ直ぐに女を見下ろすと、忌ま忌ましげに舌を鳴らした。

 前髪をかき上げる。
 大いに歪んだ泉の口から吐き出された言葉は、居合わせた者全員の腹にどしんと重たくのしかかった。


「私ははじめっから――」


 はじめっから、あんたとの結婚なんて、反対だったんだよ!


 リビングに緊張が走った。

 途端、絶望の淵に立たされたような女の顔。目の縁がぴくぴくと震えだし、唇がゆっくりと歪んでいく。

 やがて、打ち崩れたように女は力なく頭を垂れた。
 前髪の奥からぽたりと雫が落ちるのが見えたけれど、泉は何も言わなかった。