昭和8年富山県生まれ、戦前より絵を描くことが好きだった青年は東京の大学に通う実兄をたよりに上京する。

美術大学には通わず新宿駅前にイーゼルをおき似顔絵を描いて日銭を稼いで暮らしていた。まとまった金ができると画材とキャンパスをもって旅に出た。
特に九十九里浜の海岸を描くのが好きだった。

戦後は、アメリカのGHQのなかに働き口を見つけて、ポスターをいくつも描いていた。それから、彼は結婚もせずに騒がしい新宿の場末のアパートでひとり暮らし、こつこつキャンパスに向かっていた。

結婚をしなかったのは、画家は孤独に身を寄せることが条件であることと、絵を描くことは女性を幸せにしないという考えがあったと聞かされたことがある。

僕が彼に出会ったのは、5年前の6月。
まだ新宿にデッサンをしに通っていたころだ。
僕は気難しい顏をして、デッサン室の無闇な緊張から抜け出し、青天井に優雅に広がる煙草の煙をふぅーと吹き出した時、ちょうどベランダにいた彼から声をかけられた。

「煙草はやめた方がいいですよ。ただでさえ東京の空気は汚いのです。健康にわるいですよ。お名前はなんですか?私、夢賀と申します。」

真夏の陽気のいい青空のした、頭に手拭いタオルのターバンを巻いていた彼は、ビニール袋からグシャグシャになったサンドウィッチを取り出し大きな口をあけて噛み付いた。