《あり……す……》
絹枝さんが、初めてその名を口にした。
《そうよ、「不思議の国のアリス」が好きだった母に付けてもらえた名前なの。
その本は母からわたしへ、わたしからタダシへ、そしてタダシからあなたへ贈られたのよ。
懐かしいわ……一緒にたくさんお話ししましょう》
少し穏やかな表情となった絹枝さんとアリスの間に、小鳥の囀りと口笛に似た音が流れた。
バンドウイルカの鳴き声、ホイッスルだった。
気がつけば、黄金色に輝くバンドウイルカがすぐそば、手を伸ばせば触れる距離にまで近づいてきていた。
《川村絹枝、受け取りなさい。川村忠司があなたにと遺したものを》
黄金色のイルカの声は、たぶん絹枝さんにも聴こえていた。
“アプレクターと化した”ゆえに。
絹枝さんはすっかりと若い娘の姿に戻り、震える手を何度となく伸ばしたけれど、それは躊躇いからかさまようばかり。
だけど意外な事に、アリスが絹枝さんを励ますように、肩に手を置いた。
それに勇気づけられたのか、頷いた絹枝さんは遂に手に取った。



