魔王様と暁の姫

 氷雨の降り注ぐ世界の片隅で、少年は独り、空を見上げていた。


 別に、理由なんてない。ただ、気づけばこうしていた――それだけのことだ。

 だというのに、どうしてこれほどまでに胸を締め付けるのだろう。

 きっと珍しい光景じゃない、はずだ。

 それだというのに、ずっとここで立ち尽くしている。

 誰かがここに、迎えに来てくれるのではないかという、宛のない予感のせいかもしれない。


 行き交う人々は、少年に目もくれない。まるで最初からそこには、空白しか存在していないかのように。


「探したよ、――“魔王様”」

 不意に、淡い香りが鼻腔をくすぐった。
 
 遠い日の記憶を揺り起こすような、切なく、けれど懐かしい香り。

 顔を上げれば、そこには漆黒の髪をなびかせ、ローズクオーツのドレスを纏った少女が立っていた。物語から抜け出してきたお姫様のような彼女は、少年の凍てついた心を溶かすように、花の笑みを浮かべている。


  言葉を紡ごうとするが、それは声にならない。

  聞きたいことはたくさんあるのに。


 少女は、黒耀の双眸にわずかな哀しみを宿し、静かに名を告げた。


「わたしはリシュティア。あなたの名前は?」


 名前。その問いが、少年に真実(げんじつ)を突きつける。思い出そうとするたび、喪失感という名の空白が広がっていく。


 これは贖罪(しょくざい)。


 すべてを忘れてしまったことへの、対価。

 目の前の少女を、何一つ覚えてない。だというのに、はじめて会った気がしないのは何故なのか。

 記憶のピースが、綺麗さっぱり欠落してしまっている。

 自分には何もない。大切な思い出も、名乗るべき名も。


「――思い出せないのなら。わたしの好きなお花の名前をあげる」

 思わぬ言葉に、少年の時間が止まる。
 少女の穏やかで澄んだ声が、凍てついた空気を溶かすように響いた。


「あなたはユーリ。白くて、とても綺麗お花なの。今度、一緒に見に行こうね」

 ユーリ。それが、俺の名前。

 降りしきる雨は凍てつくように冷たいのに、名前を呼ばれた瞬間、胸の奥に灯火が宿ったような気がした。


「……ありがとう」

 どうして、こんなにもやさしくしてくれるのだろう。

 唇が零れた言葉は、ぎこちない。
 

 周囲の冷淡な視線も、好奇の眼差しも、彼女は一切気にする素振りさえ見せない。