元治元年(1864年)6月
    京都

 蕎麦(そば)処“おぼろ”

「五條の方でまた、維新の志士が切られたそうだな。」
 客が言った。

「恐い世の中ですぜ。あちこちで、人が切られやがる。」
 店主が答える。

「おやじ、勘定ここに置いとくぞ。」
 店主達の会話を余所に、一人の客が立ち上がった。

「へい。まいどあり。」
 店主が頭を下げた。

 男は無言で店を立ち去って行った。

「誰だ今の男。見ない顔だったな。」

「さあ?…ただ、あの男の腰の物…ありゃあ相当の業物(わざもの)ですぜ。」

「ふぅーん。恐いこって。しかし、今夜はやけに静かな夜だな。満月の夜だというのに、犬さえ鳴きやしない。」」
 客が耳を澄ませた。

「何か起こるんじゃないですかい。…“壬生狼”(みぶろ)の動きもおかしいし…」
 店主が、小刻みに瞳を動かす。

「やめてくれよ。酔いがさめちまう。今夜は早く帰るか。」
 客の体がゾクッと震える。




 時は幕末、日本は徳川幕府を中心とする佐幕派と長州藩を中心とする攘夷派と分れ、これからの日本国の行く末について荒れに荒れていた。殊(こと)に京の町は天皇の御所処として、幾多の血で染まっていたのであった。