「なに、人生はこれからじゃないですか!」
 
 「やっと人生の中腹ですね!」
 そのような、世界中の老人がしていそうな会話で、ドッと笑いが起きた。それは皮肉ではなく田岡も微笑した。老人の生への図太さは、若者が持つ生への図太さとは訳が違う。前者は深みがあり、後者は浅はかだ。

 
 「田岡さん? チョコレート、落ちますよ?」

 
 (“ジャージすら着たことが無い”…? そうだ、役以外には…)
 田岡の頭の中を、駿馬がかけるように人生の記憶が過ぎった。
 (……妻も息子も親友もいない。バイクも乗ったことがなく、コーヒーを挽いたこともない。激怒した事も、葬式で泣いたことも、愛車を洗った事もない…。それらの経験は全部、与えられた役の中だけだ…)
 人はそれを走馬灯という。

 
 「田岡さん?」


 「は? あっ、ああ」
 田岡は慌てて、チョコレートを口に入れた。

 
 多分これが、一生で最後のチョコレートになる事だろう。