私にも、そういう幼少の親に背負われた記憶がある。父親にデパートで何故か片方の靴を無くして、泣きながら背負われて帰った事、幼少の頃の病院通いでしんどくなって、母に背負われて帰った事。
そんな記憶は情けない、力の無い子供の頃の記憶ではなく、今にして思えば温かくて、安らかな記憶なのだ。
だから体が大きくて、いい歳したダンナは記憶の持つ温かさで、子供のように純粋に泣く事が出来る。
それをもたらせてくれた人の死に心から悲しむ事が出来るのだ。
私は出産の前に、身近な人の死を経験した。
そんな近しい死は、残された人間の考えを大小あれ、影響を与えると思う。
悲しみが深いほど、その人に対する思いが深くそして、温かいものなのだ。
それは私も知っている。
父親の死の時の寂しい気持ちは今でも少し残っているし、優しかった面影を偲べる事は幸せな事だと思う。そして、もう一つ、私に深く残っている悲しみ。
それは、あの幼少の時に出来た初めての友達、まゆちゃんの死。
未だに、私の中にアンバランスに受け入れ難い事実は、優しい微笑みを私に向けるまゆちゃんが、私に死を納得させないでいるのだ。あの笑顔が…。