芳しい匂いに誘われて、
 うだうだとのしかかる眠気を押し退けた。

 今日は珍しく目覚ましが鳴らない。こんな日もある。

 吾妻幸介の朝は充実している。

 基本的には和食で希望すれば洋食も可だし、
 目覚ましより正確で優しく起こしてもらえるし、
 遅刻や空腹とは無縁の朝を迎えられる。

 ふと謝りたくなった。

 こんなに贅沢でごめんなさい。

 寝巻を脱ぎ畳んで着慣れた制服の袖に腕を通す。

 特筆すべき印象のないブレザーやワイシャツも、今日で着納めかと思うと感慨深い。

 長かった一年間が、今日で終わるのだ。

 鏡の前でネクタイを締めると、
 普段より気を引き締めてドアを開けた。

 朝の第一声は爽やかに。

 階段を上ってくる音が、廊下に出たとたん聞こえてくる。

 どうやら着替えに時間を掛けすぎたらしい。


「おはようございます」


 しかも挨拶まで出遅れた。
 いや、競うこと自体無駄なのだが。
 早起き料理家事全般、すべてをこなす穂積家のライフライン様。


「おはよう彩音姉さん」

「朝食の支度は、もう出来てますよ」


 わかっています。先程からお腹が鳴りそうだから。


「おじさんはもう起きてるの?」

「下でカメラのレンズを磨いていますよ」


 疲れたように言う。

 穂積のお父さんは大変な親馬鹿だ。

 目に入れても痛くないどころか、どんとこいと胸を張れる人だ。

 彩音も苦労する。

 そんな姿を十年近く、傍で見てきたからよく分かる。


「そ、それじゃあ早く食べましょう?」


 誤魔化したな。

 つらい現実に立ち向かうため、早足に階段を下りていく穂積彩音。

 それにしても、エプロン姿がよく似合う。
 階段を下りていく後ろ姿を見ながら、そんなことを思った。

 同年代で二ヵ月早く生まれたから、という理由で姉さんと呼んでいる人だったが、こうして見ると姉というよりは母親だ。