何故なら、醜い人程それを補う術が必要で、美しい人間はその必要性を蔑ろにしてしまいがちなのだ。
醜いとはつまり外見では他を魅力する事が難しい。
しかし生き抜く上で何が必要か、つまりはその必要性である。
いかに自分を良く見せるか、どう人と付き合うか…、何よりその気遣いを深く考える分、外向的かつ周りから受け入られやすい人格となる。
逆に美しい人間はそれを自分で認知するあまり、自分からは何もせず、ただ周囲からのアプローチを待ってしまうのだ。
自然とそれは他人からは傲慢だと写り、美しいだけの性悪だと判断される。
しかし不足したその術は生きていく中の感覚によって学ぶような物で、成熟してから得る事は難しい。
"モテそうでモテない"という言葉がある通り、美しい人より醜い人の方が遥かに純粋そうに見られ、結果、醜い小太りの性悪男が千人切りという伝説を作ってしまう世の中になってしまったのだ。
男性は女性を選ぶ際、抱けるか抱けないかという短絡的な基準を持っている事が多く、全ては外見重視である。
その分、醜いと判断される女性の方が圧倒的に孤独の確率が高い。
女性が生き抜く術で得られる広い交遊関係は飽くまで"交遊"の枠に括られ、望む恋愛の対象を得るには基準を下げる以外に方法がないのだ。
しかし、醜いと言われる男性が何故そうも簡単に対象を得られるのか…。
それは男性と女性の対象の選び方の違いにあると言える。
もちろん男性が全て性のみの基準で女性を選ぶ訳ではないが、周囲にひけらかす、または美しい女性を征服したという事実を欲しがる。
しかし女性が強く望む対象の基準とは、安心感、または安堵の生活という物がある。
一緒にいて自分が安心出来る対象であれば、外見は免除される事が多い。
まさしくこれは女性にしか持ち得ない"母性"が働くからだ。
優しき擁護、抱擁があれば、対象に値する条件は満たされる。
ただ、外見からイメージする人格は飽くまで勝手なイメージであり、醜いからその男が優しい純粋な人間とは限らない。
むしろ、醜いからこそ幼き頃からの性格は次第に屈折し、打算的に女性を制圧しようとするのではないのだろうか。
