本屋で立ち読みした医学書によると、ごく稀にある話だそうで、ある一定の時期より以前の記憶を無くした人間が、徐々にではなく、何かしらのきっかけによって突如記憶を取り戻した場合、それと引き換えに記憶を無くした時から現在までの記憶を失う事があるそうである。

碧の脳裏から自分の記憶が消える…そして肇や夏美の想い出も。そう考えると恐ろしくて気が狂いそうになる。

医師の肇と元看護婦の夏美はそれが分かっていたから碧の熊野川町行きに昨夜反対した。

本音を言うと和哉も大反対である。

和哉の知らない15年前以前の碧なんか知らないし知りたくも無い、そんな事よりも今の碧が和哉には大切であった。

しかし結局は和哉が賛成したために碧は今日、運命の場所へと行ってしまった。それがよかったのか悪かったのか…ずっと碧に沖田家にいてほしいと思う和哉だが、碧には自分を知る権利があると思ったのだ。だから反対できなかった。

もし碧を失う事になれば一生後悔するかもしれない。あの時殴ってでも行くのを辞めさせておけばと…。

沖田家での事を忘れなかったとしても真面目な碧の性格だから、家を出て行く可能性も十分に考えられた。

碧を失えば肇はともかく夏美は生きていけないかもしれない。

碧が熱を出した時寝ずに必死で看病したのは夏美だし、健康を考えて料理があまり得意でなかった夏美が毎日一生懸命弁当の献立を練っていたこともあった。

やはり母親にとって同性の子供は自分の分身なのかもしれない。たとえ血が繋がっていなくても碧は母夏美の命そのものであると和哉は思った。

昨夜の和哉の賛成はその母を追い込むことになるかもしれないのだ。