黒刺の顔が私に近付く。
まるで、黒い獣に睨まれているようだ。背筋が凍りつきそうである。
「逃げ出すのはやめておけ。どうせ捕まるのだから、より私を不快にしない道を選ぶに越したことはない」
見抜かれていた。
私の心臓がどくりと音をたてる。
それに気付いたのか、黒刺がせせら笑った。低い声が私の鼓膜を揺さぶる。
そして私の胸倉を掴んだ手で、強引にベットの上へ引き倒した。
間髪入れず、逆の手で顎を掴まれる。黒刺は尖った爪をわざと立て、私の皮膚を切り裂いた。
「……っ」
私は痛みを噛み殺す。
傷から血が流れ出ているのが分かった。
抵抗しようと腕を伸ばすと、黒刺は意外にあっさりと手を引く。
私の顎から外した手の爪は血に濡れていた。
黒刺はそれをぺろりと舐める。
舐めた後、堪え切れないといった様子で、歪んだ笑みを浮かべた。
「あの青珀の花嫁だというから、どんなものかと思ったが。贄は所詮ただの贄か。
我が舌の悪食を差し置いても、清廉潔白な血がかくもまずいとは」
黒刺の血に濡れた爪先が、一瞬炎を発したように揺らめく。
炎が消えると、血は跡形も無くなっていた。
「…所詮贄って、どういう意味」
弱さを見せれば付け込まれてしまうだろう。
私は黒刺を強く睨み付けた。
その程度で怯むわけがないと、分かっていたけれど。
「愛だの恋だの、そういった醜いものを期待していたわけだが…どうも違うようだ」
違う…。
何が違うというのだ。
「私は、ユゼのことが好きよ」
さっき、目の前の男のおかげで気付いたことだったけれど。
それが愛でもなければ、恋でもないなんて、言われたくなかった。
くつくつと黒刺が笑う。
「お前の話ではない」
「じゃあ、誰の…」
「あの、青く未熟者な琥珀のことに決まっているだろう」
「ユゼにとって…、そんなこと……」
ない、のだろうか。
本当に?
勢いで言い返そうとした唇が自然に閉じていく。
私が、ユゼにとって贄以上の存在である証拠なんて、どこにもなかったのだ。



