「じゃ、そろそろ帰るね」



俺は立ち上がって玄関の方に歩きかけ、ふと振り返る。



「そういや、名前言ってなかったよな」



この先また会う可能性は、おそらくゼロに近い俺たちに、名前を知る必要なんてないのかもしれない。


でも俺は、源氏名の“ちぃ”ではなく、彼女の本名を知りたいと思った。



「俺、シン。君は?」


「……千夜子(ちやこ)」


「チャコ?」


「違う! 小さい“ゃ”じゃなくて、“ちやこ”! 

千の夜の子って書くの」


「ふ~ん」



いい名前じゃん、と心の底からつぶやいた。


“ちぃ”よりずっといい。




「じゃぁね、千夜子さん」



ひらひらと手を振り、彼女の部屋を出た。



玄関のドアが閉まる音を背中で聞きながら、

そういえば女の子の家に行ってキスすらしなかったのは初めてだな、と思った。