ジル。

その名前が、咄嗟に胸の中に浮かんで。
思わず、ドキッとした。

でも、わたしは、それを振り払うように、さりげなく、肩をすくめた。
まさか。彼は、ここには居るはずがない。
この先も、目の前に現れることはないだろう。
……現れるはずがない。

そして、一瞬で取り繕って、澄まし顔で、ウエイターを見上げた。

「……, please」

最初、何を言われたのか分からなかったけれど、彼の差し出している物がレシートだったので、お金を払えば良いのだ、と分かった。
ふと見ると、ドル表示。
どっぷりタイを旅行していたので、手持ちにドルがない。
ウエイターにそう伝えると、彼は、一旦レジへ戻って行った。そして、新しいレシートを手に、笑顔でこちらへ来た。バーツに計算し直してきてくれたらしい。わたしは、ポケットに残っていた小銭を出して、チップも上乗せして、彼に渡した。

そのとき、ふと、改めて、彼と目が合う。

浅黒い肌に、くりくりとした、大きな目。
白目が、やたら輝いて見える。

彼は、身振りで、「ひとりなの?」と聞いてきた。

わたしは、再度、肩をすくめる。
「そうよ」と、「悪い?」をごちゃまぜにしたような気分で。

すると、彼はとびきりの笑顔で、「良い旅を」と言った。

何だか拍子抜けしてしまって、わたしは、思わず、一瞬、立ち止まってしまった。
心からのその笑顔に、わたしは、何だか自分が恥ずかしくなって、表情を強張らせると、レシートももらわずに、そのまま店を出た。

「気をつけてね」と、その思いやりのある声が、わたしの背を追いかけてきた。