ザーッ、という波の音が、わたしを引き止めようとするかのように、急に大きく聞こえた。思わず立ち止まって、振り返った。
月明かりに照らされた波打ち際を、もう一度見たいと思ったのだ。
けれど、たくさんの寝椅子が並んでいて、波間がよく見えない。
さっきの場所が、特等席だったみたいだ。

「送るよ」
少し残念そうに佇むわたしを、急かすように、彼はそう声を掛けると、また歩き始めた。

やっぱり、と胸の中でこっそり呟く。
彼は、わたしを送ってくれる。
思った通りだった。
自分の想像と現実の彼とが、ずれていなかったことに、勝手に少し安心して、わたしは、気持ちが軽くなって行くのを感じた。これが、心を開くということなんだろうか。少なくとも、心の扉の鍵は、今開けられたような気がした。
でも、実はまだ、今まさに自分のしていることが、よくわからない。

トゥクトゥクの中、彼は、さっきビーチであったことを話してくれた。
わたしがウトウトとしている間、彼はじっと海の方を見ていて。
気がつくと、一人の男が、わたしの周りをうろうろして、わたしを、ジロジロと見ていたのだそうだ。

「ただ、それだけ、だけどね」
彼はそう言って、風に踊る髪を片手で押さえた。
「……何て言って、追い返してくれたの?」
「別に、たいしたことじゃない」
と言って、結局、教えてくれなかった。
助かったんだし、まぁ、いいか。
わたしもそう思って、そのことは忘れることにした。
そして、彼も一緒にトゥクトゥクを降りて、部屋まで送ってくれた。
ホテルの庭にも、一晩中、警備員が立っているんだから、大丈夫だと言ったのだけれど。

「ねぇ、いつも、一人で夜ウロウロしていたのか?」
部屋に上がるエレベータの中、彼は、突然、そう訊いた。
わたしは、ちょっと驚きながら、
「いつもじゃないわ、いつもは、ホテルの中で、適当に夕飯を済ませていたから」
と、思わず正直にそう答える。
今夜のコレは、わたしにとって、ちょっとした冒険だったのだ。
「同じさ。ホテルの中だって、本当は、夜は一人で出歩かない方がいい。敷地内に、警備員がわざわざ常駐している意味を、考えた方がいい」
ふと見上げると、彼は、口元をぎゅっと引き締めて、とても厳しい横顔をしていた。