今のところ、彼はわたしに何をするでもなく、ただ、放っておいてくれている。帰ると言えば帰してくれるだろう。
きちんと、紳士的にホテルまで送ってさえくれるかもしれない。
それなのに、なぜか、しまった、という思いは、消えなかった。
どうしてこんなことをしてしまったのだろう、こんなことをすべきではないのに……、と。

気持ちと行動との、激しいギャップに頭を痛めながらも、わたしは、こうして目まで閉じて、頬を撫でて行く、優しい暖かな風を、ゆったりと味わっている。
それは、信じられないことに、この島へやってきて、初めてのリラクゼーションと言えるものだった。
ーー少々悩みながらもーー心をうんと伸ばして、そして、脱力して。
此所に居ることを、心から心地よいと感じていたのだ。

とそのとき、ふと、何か感じて、わたしは、突然目を開けた。

すると、さっきまで、隣の寝椅子に横になっていた彼が、上半身を起こして、わたしを見下ろしているところだった。

わたしは、何か言おうと口を開きかけた。けれど、彼は、そんなわたしを咄嗟に制して、何も言うなといわんばかりに、自分の唇に人差し指を当てた。
そして、彼は、わたしの後ろの方を、じっと、見詰めている。
あまり、穏やかとは言えないその表情に、少し不安になりながら、わたしは、黙ったまま、じっとしていた。
 
何だか、背後で人の気配を感じた。でも、怖くて、振り向けない。
 
彼は、じっとわたしの背後を見据えている。
そして、タイ語らしい言葉で、何かを言った。
すると、背後、思ったよりも近くから、男の声が返事をする。
わたしは、ビクっとしながらも、そのまま、じっとしていると、やっと背後の気配が消えたのを感じた。
ざくっ、ざくっ、という、砂浜を歩く足音が、気配と一緒に、遠のいていく。

思わず、ホッと息をついて、わたしも、上半身を起こした。
腕には、一斉に鳥肌が立っている。
思わず、自分で自分の体を抱きしめた。

「……行こうか」
 
彼はそう言って、わたしの手を取って立ち上がらせると、そのまま手を繋いで、道路の方へ向かい始めた。