「真実の愛を見つけたんだ!」の後、逆断罪された王子を貰い受けまして。



馬房で倒れて三日後、ルシアン殿下の次の職場は、宮殿の厨房になりました。

厨房の朝は、馬房よりさらに早いのです。出勤していく殿下と、朝食前の私が廊下ですれ違いました。

「おはよう、イーリス。……顔、半分寝てるぞ」
「おはようございます、殿下。あら、いいですねえ」
「何がだ」
「朝に弱いのが、私だけではなくなってきましたから。いいえ、殿下はもう弱くないのでしたね」

馬房暮らしで、殿下の朝はすっかり強くなっていました。置いていかれる気分です。少しだけ。

案内したのは、料理長のゴードン。熊のような体躯に、岩のような顔。厨房の全員が、この人の一睨みで背筋を伸ばします。

「聞いてるよ、王子様。馬房で倒れたそうだな」
「……見習いのルー、です」
「よし、ルー。じゃあ、まず皿洗いだ。宮殿の皿は高い。割ったら、お前の小遣いから引く」
「小遣い、もらっていません」
「じゃあ、割るな」

合理的な話でした。

結果から言えば、殿下は皿を割りませんでした。ただし、遅いのです。丁寧すぎて、一枚に時間がかかる。そして野菜の皮むきは、悲惨でした。

じゃがいもが、皮と一緒に半分消える。

「ルー! お前はじゃがいもと何か因縁でもあるのか!」
「す、すみません……」
「その削れた分は、賄いのスープ行きだ。無駄にはしない。――だが次は、皮だけを剥け。じゃがいもは悪くない」

ゴードンは厳しい。けれど、公平な人でした。できなければ怒鳴り、できれば認める。身分は、一切関係ない。

皿洗いの相方になったのは、年配の洗い場担当、アンナという女性でした。手の関節が変形していて、重い鍋を持つと顔をしかめる。

殿下は三日目に、それに気づきました。

「アンナ、鍋は俺が持つ。あんたは軽い皿を頼む」
「あら、ルーさん。でも、それはあたしの仕事で」
「分担だ。……それに、俺は皿が遅いからちょうどいい」

さりげない申し出でした。馬房の二の舞を避ける知恵でもある。人の荷物を見る目が、少しずつ向くべき方向を向いてきました。

転機は、晩餐会の日の午後に来ました。

大鍋のスープの味見を任された殿下が、スプーンを口に運んで、ふと言いました。

「……この鍋、塩が少し足りない。あと、もう一つ奥の鍋は、逆にハーブが強い。客の好みで言えば、出汁の方は大臣用、ハーブの方は騎士団用に回した方がいい」

厨房が静まり返りました。

ゴードンは無言で二つの鍋を味見し、殿下をじっと見ました。

「……お前、舌は一流だな」
「王宮の晩餐会で、十八年食べてきましたから」
「なるほど、経験だけは一丁前か。――いいか、ルー。お前の手は三流だ。だが口と、人の好みを覚えている頭は一流だ。明日からは味見と、配膳の段取りをやれ。向き、ってやつだ」
「向き……」

ゴードンは、鍋を掻き回しながら言いました。

「厨房の仕事はな、食べる人のことを覚える仕事だ。腕のいい料理人は大勢いる。だが、誰が何を喜び、何を体に障るかまで覚えているやつは少ない。お前には、それがある」

殿下は、その言葉を噛みしめるように繰り返しました。

配膳の段取りで、殿下は水を得た魚でした。

どの騎士が何を苦手で、どの文官が持病で塩分を避けていて、誰の席にどの順番で運べば厨房が詰まらないか。一度聞いたことは、二度と間違えない。

「ルーさんがいると、晩餐会が回る」
「あの人は、人の顔を見たら全部覚えるんだって」

厨房でも、「ルーさん」の呼び名が広がっていきました。

その晩餐会では、危うい場面もありました。

来賓の使節団の一人に、甲殻類の入った前菜が出されそうになったのです。名簿には何の注意書きもない。けれど配膳を仕切っていた殿下が、給仕の腕を止めました。

「その皿は、あの人には出すな。――三年前、フェルディアの宮廷で会ったことがある。あの人は甲殻類で倒れたことがあるんだ」
「……名簿にありませんよ」
「名簿より、俺の記憶を信じてくれ。間違っていたら、責任は俺が取る」

確認すると、それは事実でした。使節本人も「よく覚えていてくれた」と驚き、厨房は事なきを得たのです。

「責任は俺が取る」と、彼は言いました。

三週間前なら、考えられなかった言葉です。

ちなみに、その晩餐会の日、私も様子を見に厨房へ降りたのですが。

「あら、殿下。頑張っていますね」
「イーリス!? なんで厨房に……包丁を置け! 頼むから置いてくれ!」
「失礼な。見学です、見学。……あら、このじゃがいも、私が剥いてあげましょうか」
「いや、結構です!!」

厨房の全員が、一斉にそう言いました。

……私の家事の腕前については、宮殿では一応の共通認識があるようです。悔しいですが、事実なので反論はしません。

晩餐会が終わり、厨房の賄い飯に座った殿下は、ぽつりと言ったそうです。

「ここでは不思議と、楽なんだ。できたか、できないか。それだけだから。……生まれも、肩書きも、誰も数えてない」

報告を聞いて、私は少し考えました。

この人はずっと、数えられることばかりの世界で育ったのでしょう。兄としての出来、弟との比較、王太子としての点数。――皮肉な話です。その彼を、私は今、点数で育てている。

でも、と私は思います。私の点数は、生まれではなく、行いに付ける点数です。それだけは、間違えていないはずでした。

その夜、私は評価表の余白に書き足しました。

向きが合えば、人はここまで働ける。あとは、逃げ場にしていた「向きの合わなさ」を、言い訳に使わせないこと。

――本日の査定メモ:労働、観察中。「皿洗いと皮むきは三流。味覚と記憶と段取りは一流。料理長より『適材適所』の評。厨房でも『ルーさん』と呼ばれ始めた」。