翌朝、ルシアン殿下はまだ書斎にいました。
没原稿の山はさらに高くなり、本人は椅子に座ったまま、船を漕いでいます。一睡もしていないのでしょう。私は朝に弱いはずなのに、今日は殿下の方がよほど弱って見えました。
朝食の盆を持ってきたバルバラが、原稿の山を一目見て、呟きました。
「まあ、ずいぶんと書きましたねえ」
「……全部、没だ」
「あらまあ」
バルバラは盆を置きながら、穏やかに言いました。
「殿下。年寄りの独り言だと思って聞いてください。――謝るってのはね、自分の気持ちを話すことじゃないんですよ」
「……じゃあ、なんだ」
「相手が背負った荷物を、言葉で下ろしてあげることです。あんたの気持ちは、あんたの荷物だ。それを相手に持たせ直しちゃ、謝る意味がない」
殿下は、はっとした顔でバルバラを見ました。
「四十年、宮殿に仕えてきましたから。謝るの下手な殿方を、山ほど見てきたんです。立派な方ほど、自分の気持ちを語りたがる。それが、癖なんですよ」
「……バルバラは、誰にでもそうやって助言するのか」
「助言だなんて。ただ昔、ある大臣様が、女王様への謝罪文を三十枚も書いたことがありましてね。中身は全部、ご自分の苦悩でした。女王様は三枚目で読むのをやめて、こうおっしゃいました。『これは謝罪文ではない。日記だ』って」
殿下は、自分の没原稿の山を、痛そうな目で見ました。
「……俺のも、日記だったのか」
「さあ、どうでしょう? 独り言ですよ、独り言」
バルバラは、それだけ言って静かに退室しました。
書斎に、静けさが残ります。
やがて殿下は、新しい紙を引き寄せました。今度は、すぐにペンを走らせません。遠くを見るように、しばらく考え込んでいます。
「……セシーリアの荷物、か」
呟いて、彼はまず、箇条書きを始めました。本文ではありません。セシーリア嬢が背負ったものの、列挙です。
途中で、ペンが止まります。
「……気づいた。俺はあの夜、セシーリアの顔を、一度も見ていない」
「ええ」
「見ていたのは、客の反応と、ミモザと、俺自身の格好だけだ。……婚約者を断罪するのに、相手の顔を見ていない。ひどい話だ」
「では、想像してください。あの場に立たされた人が、何を背負うことになったのかを」
彼は頷いて、また書き出しました。
・大勢の客の前で、婚約破棄を言い渡された
・断罪の理由として、性格を公の場で否定された
・家同士の婚約だったため、ヴェルン公爵家の体面も傷ついた
・愛する相手が、自分の婚約者の弟であるという、面倒な立場に置かれた
一項目ごとに、殿下の顔が青くなっていきます。
「……こんなに、あったのか」
「殿下は今まで、ご自分の荷物ばかり数えていましたから」
彼は黙って頷き、そして、書き始めました。
出来上がった四通目は、今までの三分の一の長さしかありませんでした。
『セシーリア嬢。あの夜、私は大勢の人の前で、あなたの名誉を傷つけました。婚約の解消そのものよりも、その仕方が、あなたへの侮辱でした。ヴェルン家の体面を傷つけたことも含め、全て私の責任です。言い訳はしません。許しを請うつもりもありません。ただ、私があなたにしたことを、なかったことにはしたくないのです。――ルシアン』
私は、読み終えて、静かに息を吐きました。
「……合格です」
殿下は、信じられないという顔をしました。
「それだけか。たった、それだけでいいのか」
「謝罪とは、そういうものです。短くて、重い」
「……今までの三通は、一体」
「回り道です。無駄では、ありませんでしたよ」
手紙は、その日のうちに早馬で発送されました。
返信が届いたのは、四日後です。
その間、殿下は落ち着かない様子で、けれど逃げもせず過ごしました。
毎朝、マルガレーテに「返信はまだか」と尋ね、三日目には庭の歩測を始め、四日目の朝には、バルバラの持つ朝食の盆を、途中まで代わりに運んでいました。暇を持て余しての行動でしょうが、手が勝手に人を助け始めているのは、いい兆候です。
待つ、ということも訓練のうちです。
届いた返信は、端正な筆跡の、短いものでした。
『ルシアン殿下。お手紙、拝読しました。謝罪は、受け取ります。ですが、許すかどうかは、私が決めることです。それは、あなたが決めることでも、急がせることでもありません。
婚約の解消については、異存ありません。むしろ私も望んだことです。
追伸。文面が短くて、驚きました。――セシーリア・ヴェルン』
端正な筆跡、無駄のない文、そして「許すかどうかは、私が決めること」という、毅然とした線引き。
ああ、やっぱり素敵な方です。手紙を書くときの私は他人事ではなく、少しだけ背筋が伸びました。……いえ、今は殿下の話です。
殿下は、読み終えて、長いこと黙っていました。
「……許されては、いないんだな」
「ええ」
「なのに、なぜか、ほっとする」
「荷物を、一つ下ろせたからです。残りは、時間をかけて返すしかありません」
私は評価表を開きました。
謝罪の項目。マイナス八十の数字に線を引き、新しい数字を書き入れます。
「謝罪、プラス十点に改めます」
「……十点か。低いな」
「初めてプラスになったのです。喜んでください」
「合計は?」
「マイナス百四十点です」
「まだまだだな」
殿下は苦笑しました。けれど、その顔は、来た日よりもずっと人らしい顔でした。
その日の夕方、殿下は厨房まで足を運び、バルバラに頭を下げたそうです。
「あんたの独り言のおかげだ。ありがとう、バルバラ」
報告に来たバルバラは、照れたように笑っていました。
「まあまあ、殿下ったら。……あれで独り言も、捨てたものじゃありませんねえ」
――本日の査定:謝罪 −80点→+10点に改定。合計マイナス140点。特記事項。
「相手の荷物だけが書かれた、初めての謝罪文が完成した」。

