下働きの巡回は続きます。
厨房の次は洗濯場、そして庭園。宮殿という巨大な生活を、下から順に舐めていく巡回です。
「なぜ、こんなにあちこち回されるんだ」
マルガレーテの持つ巡回表を前に、殿下が尋ねました。
「将来の王配は、ただの客ではありません。宮殿の暮らし全体を支える側の人間です。支えるには、まず知らなければ」
「……支える側、か」
彼は小さく繰り返しました。王族として「支えられる側」しか経験してこなかった男には、新しい響きだったのでしょう。
洗濯場を仕切るのは、ベルタという主任でした。蒸気の立つ大部屋で、彼女は山のような洗濯物を前に言いました。
「ルー、あんたの仕事は仕分けと運搬。――ただし、その前にこれを見な」
差し出されたのは、金の刺繍の施された礼服でした。夜会で貴族が着る、あの眩しい一着。
「この一着を元通りに仕上げるのに、何人で何時間かかると思う?」
「……二人で、一時間くらいか」
「三人で、二時間半。刺繍は一本ずつ手で確認、汗は染み抜き、生地は陰干し。あんたたちが夜会で一度袖を通すたび、あたしたちは半日仕事だ」
殿下は、礼服をじっと見つめました。
フェルディアで彼が着ていた礼服も、白紺の生地に金の刺繍でした。毎夜、何の気なしに袖を通し、何の気なしに脱ぎ捨てていたもの。
「……知らなかった。そんなに手がかかるなんて」
「着る側は、知らなくていいことになってる。それが宮殿の仕組みだ。――でも、あんたは知った方がいい側の人間だろう」
「……ああ。知りたい」
真面目な返事に、ベルタは少しだけ目を細めました。
仕事そのものは単調で重いものでした。蒸気で前が見えない大部屋、濡れて何倍にも重くなるシーツの山、貴族ごとに違う洗い分けの決まり。
けれどここでも、殿下の記憶力は異彩を放ちました。どの貴族の衣装にどの家紋の記しがあり、どの生地は湯が禁物で、どの令嬢のドレスは香水の染みが落ちにくいか。二日で全部を覚えて、洗い場の誰よりも正確に仕分けを始めたのです。
「ルーさんがいると、仕分けが倍速い」
「あんた、洗濯屋に生まれるべきだったんじゃないの」
「……初めて言われた」
笑い声の中で、殿下は濡れたシーツを運び続けました。
事故は四日目に起きました。
殿下が仕分けを間違え、色物の帯を白物と一緒に浸けてしまったのです。高価な絹の帯が、淡く色移りしました。
彼は隠しませんでした。すぐにベルタの元へ帯を持って行き、頭を下げたのです。
「俺の間違いだ。弁償したい。……金はないが、働いて返したい」
「正直に言ったのは偉い。だがルー、弁償は労働じゃない、結果だ。この帯は染め直しに出す。その費用は、あんたの見習い給金から月々引く。いいな」
「……はい」
見習い給金。厨房と馬房の巡回を終えた者に出る、ささやかな手当です。殿下にとって生まれて初めての「自分の給金」は、こうして借金返済に消える運命になりました。
金銭の項目の教育は、どうやら痛いところから始まるようです。
後半は、庭園での勤務でした。
庭師長のセヴェリンは、物静かな老人です。殿下に命じたのは、来春のための球根植えでした。
「チューリップだ。今植えて、咲くのは春だ」
「……春まで、何も起きないのか」
「起きているさ。土の中でな。――宮殿の庭の華やかさは、当日に作るものじゃない。半年前の土作り、季節の先読み、全部が下ごしらえだ」
洗濯場でも聞いた話でした。表の華やかさは、裏の時間でできている。
殿下は真面目に土を掘り、球根を一つずつ並べていきました。
「この花壇は、来春の晩餐会用だ。うまく咲けば、お客様の目を楽しませる」
「……その頃、俺はまだここにいるんだろうか」
「さあな。――だが花は、あんたがいてもいなくても咲く。だから植えるんだ」
庭でも、小さな事件と小さな成功がありました。
見習いの庭師が水やりの順番を間違え、日照りの弱い花壇から先に水を切らしてしまったのです。騒ぎになる前に、殿下が執務用の花の注文表と庭の配置を頭の中で照合し、「今日の晩餐会用の花は東花壇から取れる。西は休ませて、井戸の水を回そう」と段取りを組み直しました。
「お前さん、庭仕事は素人だが、花の帳面付けはできるな」
「帳面というか……覚えているだけです」
「十分だ。庭は、覚えている者がいると助かる」
セヴェリンの言葉は、どこか殿下の心に残ったようでした。
その日の夕方、執務室に戻った私の前に、バルバラが小さな瓶を持ってきました。
「殿下のお手が、洗濯で荒れていましてね。軟膏を届けたいのですが、あの方は『これくらい』と言うばかりで」
「あら。では、私から渡しましょう」
廊下で殿下を呼び止め、瓶を差し出しました。
「労いです。受け取ってください」
「……ありがとう」
殿下は瓶を受け取り、少し笑いました。
「昔は、誰かが俺の手を心配するなんて、なかったな。王子の手は、荒れちゃいけないものだったから」
「今は、働く人の手ですね」
私がそう言うと、殿下は自分の掌をしげしげと眺め、それから、どこか誇らしそうに頷いたのです。
豆だらけで、節の荒れた掌。けれど彼は、その手を隠しませんでした。
後でバルバラから聞いた話では、殿下は洗濯場の女性たちに、休みの日の過ごし方まで尋ねていたそうです。誰かの名前と事情を覚えるたび、この人の世界は少しずつ広がっていく。それが分かる一週間でした。
――本日の査定メモ:労働、順調に観察中。責任について特記事項。「洗濯物の色移りを隠さず申告し、見習い給金からの弁償を受け入れた」。金銭感覚教育は、痛いところから開始。

