部下の恋を覗きに行ったら、隣の男が妙におかしい

東雲ホールディングス財務本部経理部、田所美和。四十四歳、入社二十二年目。

社内の恋の噂で、私の耳に入らないものはない。後輩たちにはそう言われているし、自分でもわりとそう思っている。五十階建ての本社でも、二十二年もいればどの階にも一人は話の早い知り合いがいる。誰がエレベーターで乗り合わせるたびに少し声が高くなるのか、誰が急に定時で帰るようになったのか。気をつけて見ていれば、だいたい察しはつくもののだ。

十七時半ちょうど。隣の席で、ノートパソコンを閉じる小さな音がした。

「お先に失礼します」

後輩の七瀬遥が、紺のコートを腕にかけて立ち上がる。入社五年目、経費精算の担当で、社内でいちばん差し戻しが厳しいと言われている子だ。宛名のない領収書は一枚も通さないし、会議費に紛れ込んだ誰かの昼ご飯は、どれだけ頭を下げられても見逃さない。
その子が、水曜日だけは十七時半ぴったりに席を立つ。

「はーい、お疲れさま。……今週も十七時半ぴったりね」
「水曜日は、ノー残業デーなので」

澄ました顔でそう言って、遥ちゃんは足早にフロアを出ていった。

ノー残業デー。東雲ホールディングスには、たしかにそういう決まりがある。本社のどの部署を見回しても、守っている人をほとんど見かけない決まりだ。先月まで、水曜も金曜も、締めの前になれば夜の二十時過ぎまで残っていた子が、よく言うわ。

私はモニターの陰で、こっそり笑った。
理由なら知っている。

去年の秋から、遥ちゃんの差し戻しを毎月のように食らっていた男がいた。不動産事業本部開発部の、真壁課長。宛名は「上様」、但し書きは空欄、会議費の参加者欄には職人さんのあだ名。おまけに、行きつけの定食屋の領収書を毎回まぎれ込ませてくる。あれほど手のかかる申請者は、経理部に二十二年いる私でも見たことがなかった。

その真壁課長が、ある日、経理部に一枚の紙を持ってきた。
件名、会議費。場所、まるや。参加者、真壁航と七瀬遥。
経費にならない申請書で、うちの後輩を食事に誘ったのだ。

隣の席で一部始終を見ていた私が、どれだけ笑いをこらえたことか。あの日から、遥ちゃんの水曜日は十七時半に終わるようになった。

机の上で、スマホが震えた。
画面に出た名前を見て、私は少しだけ眉を上げた。

――梶原。

「はい、田所です」
「俺だ。梶原だ。そっちの七瀬さん、もう帰ったか」

挨拶もなしに、いきなりそれだ。
梶原修。不動産事業本部開発部の部長で、真壁課長の上司。そして私とは、入社以来の同期でもある。

「今、出ていったところ。なに、梶原くん。不動産の部長が、経理に何の用」
「うちの真壁も、十七時半になった途端に消えた。開発部で定時に帰る奴なんかいないのに、あいつだけ毎週水曜はこうなんだ」

電話の向こうで、梶原くんが鼻から息を抜く音がした。困っているのか面白がっているのか、声だけでは分からない。
この人は昔からそうだ。大きな体で、いつも現場の埃をつけて歩いているくせに、肝心なところで何を考えているのか、顔にも声にも出さない。

「行き先なら、知ってるわよ」
「……まるやか」

さすがに部長だ。部下の行きつけくらいは押さえているらしい。
まるやは、会社から北へ歩いて十分ほど、日本橋川を渡った先の裏通りにある定食屋だ。真壁課長の領収書に、毎月のように紛れ込んでいた店でもある。
そして私と梶原くんにとっては、入社したての頃に、同期で通いつめた店でもあった。

「見に行く?」

言ってから、自分でも少し驚いた。梶原くんと二人でまるやに行くなんて、いつ以来だろう。
電話の向こうが、しばらく黙った。

「……お前、最初からそのつもりで電話に出ただろ」
「かけてきたのは梶原くんでしょう」
「そうだったな」
「十八時に、まるやの前ね。遅れたら置いていくから」

返事を聞く前に、通話を切った。

◇

会社を出ると、まだ冷たい夜風が首元に入りこんできた。
大手町のビル街を北へ抜けて、日本橋川を渡る。首都高の高架をくぐって神田の側へ入ると、ビルの高さがふっと低くなる。古い雑居ビルの一階に赤提灯の居酒屋が並び、その先の細い路地に、紺の暖簾をかけた小さな店があった。

まるやだ。
暖簾の前に、スーツ姿の大きな背中があった。

「早いわね」
「お前こそ」

振り返った梶原くんは、会社ですれ違うときと同じ顔をしていた。眉が太くて、日焼けが抜けきらなくて、ネクタイの結び目が少しだけ曲がっている。四十四にもなって、まだ誰も直してくれる人がいないらしい。

暖簾の隙間から、店の明かりがこぼれていた。カウンターの端に、並んで座る二つの背中が見える。
私と梶原くんは、暖簾の陰で顔を見合わせた。

「……いるわね」
「いるな」

開発部の部長と、経理部のベテランが、二人そろって定食屋の入口でこそこそしている。誰かに見られたら、何と説明すればいいのだろう。

「入るわよ」
「おい。本当に入るのか」
「何のために来たのよ」

私は、引き戸に手をかけた。

◇

からからと引き戸が鳴って、だしと醤油の匂いが顔に当たった。

「いらっしゃい……あら」

割烹着のおかみさんが、私たちを見て目を丸くした。髪は前よりずいぶん白くなったけれど、声の張りは昔のままだ。

「梶原くんに、田所さん。二人そろって来るなんて、何年ぶりかしら」
「十三年ぶりです。俺が大阪に行く前だから」

梶原くんが、迷いもせずに答えた。
十三年。私も同じ数字を思い浮かべていたけれど、この人の口からすらすら出てくるとは思わなかった。

「入社したての頃は、同期の皆さんで奥の座敷を占領してたのにねえ。いつも十人くらいで、うちのビールを空にして」
「みんな辞めたり、異動したりでね。あの頃ここに来てた研修班のメンバーで、本社に残ってるのは、もう私と梶原くんだけなのよ」
「あら、そうだったの。寂しくなったわねえ」

おかみさんが、ほんの少しだけ目を伏せた。二十二年も同じ場所で店をやっていれば、通ってきた若い顔がひとつずつ来なくなるのを、何度も見てきたのだろう。

「それでね、おかみさん。奥の座敷、空いてる? 衝立のあるほう」
「空いてるわよ。ただ、二十時からは予約が入ってるの。毎週水曜の常連さんでね、いつもあの衝立の席なのよ」
「大丈夫。それまでには空けるから」
「……どうしたの、二人してひそひそ声で」
「ちょっと、偵察なの」
「偵察?」

おかみさんは私の顔を見て、それからカウンターの端にちらりと目をやって、ああ、という顔をした。

「また誰かの恋バナね。田所さん、そういうところは昔から変わらないわねえ。はいはい、奥へどうぞ」

◇

奥の座敷は、本当に何も変わっていなかった。

畳が四枚半ほどの小上がりで、通路との境に、腰の高さほどの木の衝立が立っている。衝立の格子には、誰かがつけた古い煙草の焦げ跡が残っていた。入社一年目の冬、同期の誰かが酔って寄りかかり、衝立ごと倒れかけたのも、たしかこの席だ。
座布団に並んで腰を下ろし、私は衝立の格子の隙間から、そっと店の中をのぞいた。

「……いた。カウンターの端よ」
「どこだ。見えない」

梶原くんが、ぬっと上体を起こしかける。

「頭を出さないで。真壁課長の隣、紺のコートを椅子にかけてるのが遥ちゃん」

梶原くんは渋々といった様子で背中を丸め、格子に目を寄せた。大きな体を縮めて衝立の陰に収まろうとするのが、どうにも窮屈そうだ。

「真壁の奴、上着を脱いでるな。会社じゃ、現場から戻っても脱がないのに」
「遥ちゃんの前だと、くつろいでるのね」

カウンターの二人は、もう食事を半分ほど終えていた。遥ちゃんの前には、生姜焼きの定食。水曜の日替わりだ。会社では、私が雑談を振っても「そうですね」の一言で画面に戻ってしまう子が、肩の力を抜いて、真壁課長の話にときどき小さくうなずいている。

「……あ、見て。遥ちゃんのお皿、キャベツがもうなくなりそう」

私が言い終わるより早く、真壁課長が厨房のほうへ顔を向けた。

「おかみさん、すみません。こっちにキャベツのおかわりをお願いします。ドレッシングは和風で」

遥ちゃんが、箸を止めて隣を見上げた。

「……和風が好きって、覚えててくださったんですか」
「もちろん、覚えてます」

真壁課長は、何でもないことのように言って味噌汁のお椀を持ち上げた。
遥ちゃんの耳がほんのり赤くなっていくのが、衝立越しでも分かった。

「今の、効いたわよ」

思わず、梶原くんの袖を引っぱっていた。

「何の話だ」
「好きなものを覚えておいて、本人が言う前に頼むの。女はね、ああいうのに弱いのよ」

梶原くんは、格子の向こうのカウンターと私の顔とを何度か見比べた。それから、試験に出るところでも教わったみたいに、妙に真剣な顔でうなずいた。

「……なるほど」

この人に恋の話をして、通じた試しがない。同期の飲み会で誰かの恋愛相談が始まると、いつも黙ってビールを飲んでいるだけの人だった。それでも、今日は珍しく真面目な顔で聞いている。

「お二人は、何にする?」

おかみさんが、お盆を抱えて座敷をのぞきこんだ。

「瓶ビールを一本と、グラスを二つ。それから、生姜焼きを単品で一つと、だし巻き卵。だし巻きは、大根おろしを多めにお願いします」
「はいはい。……あら、だし巻きに大根おろし多めって、田所さんの昔からの頼み方じゃない。梶原くん、よく覚えてるわねえ。……ご注文は、以上でいいかしら?」
「はい、以上で」

おかみさんと梶原くんのやりとりが、どこか遠くで聞こえていた。私はそれどころではなかったのだ。
カウンターで、真壁課長が箸を置いて、体ごと遥ちゃんのほうを向いていた。

「梶原くん、ほら見て。真壁課長、また何か言いそうよ」

衝立の格子に、二人で顔を寄せる。

「遥さん。そろそろ、航って呼んでもらえませんか」

来た、と思った。
遥ちゃんは真壁課長のほうを見ないまま、キャベツに和風ドレッシングをかけて一言だけ返した。

「……その申請は、まだ審査中です」

私は、とっさにメニューで顔を隠した。肩が震えて止まらない。

「笑うな。聞こえるだろ」
「だって、審査中って……」

あの子は、恋をしても経理部の七瀬遥なのだ。差し戻しはしないけれど、すぐに承認もしない。

「……真壁も、あれじゃ当分かかるな」

梶原くんが部下の背中を眺めて、あきれたように言った。

「まだ『真壁さん』なのよ。この前までは『課長』だったから、あの子にしては大きな進歩」
「お前、詳しいな」
「毎日、隣の席にいるのよ。見てれば分かるわよ」

朝、遥ちゃんがいつもより丁寧に前髪を整えてくる水曜日。お昼休みに、スマホを見て一人で口元をゆるめる木曜日。隣の席に座っていれば、見たくなくても目に入る。

人の恋は、見ているだけで楽しい。自分のことじゃないから、気楽なものだ。

◇

「はい、瓶ビールとグラスね。お料理は、もう少し待っててちょうだい」

おかみさんが、汗をかいた瓶を座卓に置いていった。

梶原くんが栓を抜き、私のグラスから先に注ぐ。泡が縁ぎりぎりで止まる注ぎ方は、新人の頃に総務の怖い先輩に叩きこまれたものだ。同期の男の子たちは全員、あの先輩の前で何度もやり直しをさせられていた。

「とりあえず、乾杯するか」
「乾杯。……梶原くんとここで飲むの、本当に久しぶりね」

グラスの縁が、かちんと鳴った。

「ああ。……変わってないな、ここ」
「変わってないわね。おかみさんも、この座敷も」

壁に貼られた手書きのお品書きも、色がすっかり茶色くなった招き猫も、あの頃のままだ。変わったのは、ここに座っている人数だけ。

「入社したての頃は、毎週のようにみんなでここに来てたな」
「来てたわね。誰と誰が付き合ってるとか、誰が誰に振られたとか、全部この座敷で聞いたもの」

百人を超える同期の中で、私たちは、新人研修の初日にたまたま同じ班にされた十一人だった。ほかの班が講師の顔色をうかがって真面目に手を挙げているあいだ、うちの班はグループ討議のたびに話が脱線して、最終日の発表会のあと、十一人そろって講師に呼び出された。反省会と称してなだれ込んだのが、この店だった。

それから何年か、水曜の夜になると、誰が声をかけるでもなくこの座敷に人が集まった。営業に行った子は得意先の愚痴を、人事に行った子は誰かの昇進の噂を持ってくる。経理の私が持ってくるのは、もっぱら恋の話だった。

梶原くんはいつも座敷のいちばん隅で、黙ってビールを飲んでいた。誰かに話を振られても「まあな」で終わる。そのくせ、私の噂話がたまに外れそうになると、隅のほうから「それは違うと思うぞ」とぼそっと口を挟んでくる。悔しいことに、だいたい梶原くんのほうが当たっていた。

「お前は昔から、そういう話になると急に元気になる」
「いいでしょう、別に」
「はい、お待たせ。生姜焼きと、だし巻きね。大根おろしは山盛りにしておいたわよ」

湯気の立つだし巻き卵の横に、大根おろしが小山になって添えられていた。端を一切れ箸で割って、おろしをたっぷりのせて口に運ぶ。

「ありがとう、おかみさん。……これこれ、この味」

だしが甘すぎなくて、卵がふわふわで、大根おろしの辛みがちょうどいい。二十二年前と、少しも変わらない。
もう一切れ、と箸を伸ばしかけたところで、カウンターの様子が目に入った。

「……あ、見て。あの二人、もうすぐ食べ終わる。真壁課長は、ここからが勝負よ」
「勝負? 何の話だ」
「次の約束を、今日のうちに決めるの。『また今度』は絶対にだめ。また今度なんて、一生来ないんだから」

言いながら、だし巻きをもう一切れつまむ。梶原くんの箸は、なぜか止まっていた。

「一生来ない、か。……身に覚えがあるな」
「何よ、それ。梶原くん、誰かに『また今度』って言われたことあるの?」
「言われたんじゃない。言ったほうだ」
「ふうん」

誰に、と聞こうとして、やめた。カウンターで、真壁課長が湯呑みを置いたのだ。

「……あ、待って。真壁課長が何か言う」
「遥さん。来週の水曜も、ここでいいですか」
「……はい」

遥ちゃんの返事は小さかったけれど、迷いはなかった。

「ほらね。上出来」

思わず、座卓の下で小さく拳を握る。

「田所。来週の木曜、空いてるか」
「空いてるけど。……それより見て、遥ちゃん、今ちょっと笑った」
「……そうか」

梶原くんが何か言いたそうな顔をした気がしたけれど、私の目はカウンターに釘づけだった。

◇

「真壁さん、明日も朝から現場ですよね。今日は早めに帰ったほうがいいんじゃないですか」

遥ちゃんが、壁の時計を見上げて言った。

「そうですね。じゃあ、食べ終わったら、ここで解散にしましょうか」

真壁課長が、あっさりとうなずく。
私は思わず、衝立の格子をつかんでいた。

「ちょっと、真壁課長。そこで解散してどうするのよ」
「いいんじゃないのか。明日、早いんだろ」
「よくないわよ。ああいうときは、駅まで送るって言うのよ。『同じ方向なんで』とか言って。本当に同じ方向かどうかは、関係ないのよ」
「関係あるだろ」
「ないわよ。口実なんだから」

梶原くんは、空になったグラスにビールを注ぎ足しながら、少し考えるような顔をした。

「田所、お前、帰りは東西線だよな。俺もだ」
「梶原くんは、田園都市線でしょう。大阪から戻ってきてから、ずっと」
「今日は、東西線の気分なんだ」
「何それ」

電車に気分も何もあるものか。ビール1杯で酔いが回ってきたんだろうか。

「あ、でも口実っていえば、昔、同期にいたわよね。雨の予報の日に限って、わざと傘を忘れてくる人」
「いたな」
「あれ、好きな子の傘に入れてもらうための作戦だったのよ。結局その二人、結婚したんだから」

営業部に配属された、背の高い子と、人事のおっとりした子。今は二人とも会社を辞めて、千葉で子どもを三人育てている。年賀状の家族写真が、毎年少しずつにぎやかになっていく。

すると梶原くんは、真面目な顔で言った。

「……俺、今日、傘を持ってきてない。帰り、入れてくれないか」
「私だって持ってないわよ。今日、一日晴れてたわよ」
「……そうだったな」

今日の梶原くんは、やっぱりどこか変だ。

「……あ、ちょっと黙って。真壁課長、遥ちゃんのほうを向いた」
「遥さん、今日のその髪留め、初めて見ました」
「……あ、これですか。先週買ったんです」
「似合ってますね」
「……ありがとうございます」

遥ちゃんの指が、耳の上の小さな髪留めにそっと触れた。あの子が自分のために何かを買うのを、私は初めて見た気がする。

「今の、褒め方としては悪くないわよ」

私は、梶原くんに向かって指を一本立てた。

「服じゃなくて、その人が自分で選んで大事にしてるものを褒めるの。そのほうが、ちゃんと見てくれてるって思うから」

梶原くんの視線が、カウンターから外れて、私の耳もとで止まった。

「お前、そのイヤリング、入社した頃からつけてるよな」

反射的に、左の耳に手をやった。小さな真珠が一粒だけ下がった、銀のイヤリング。

「……一年目のボーナスで買ったのよ。よく覚えてるわね」
「似合ってる。昔から、いいなと思ってた」
「……え?」

梶原くんは、それきり何も言わずに、生姜焼きに箸を伸ばした。

……ん?
今の、もしかして。

いやいや、梶原くんに限って、そんなわけがない。二十二年、同期の飲み会で隣に座っても、恋の話ひとつしなかった人だ。きっと、ビールのせいで口が軽くなっているだけ。

「……そ、それより、生姜焼き、冷めちゃうわよ」
「ああ」

箸が皿に当たる音だけが、しばらく続いた。

「大阪にも、こういうお店あった?」
「現場の近くに一軒な。だし巻きが薄味で、最初は物足りなかった」
「梶原くん、昔から味の濃いものばっかり食べてたものね。新人研修のお弁当にまで、お醤油かけてたし」
「よく覚えてるな、そんなこと」
「覚えてるわよ。あれは、同期みんなで引いたもの」

幕の内弁当の白いご飯に、醤油を回しかけていた大きな新人。思い出したら、こらえきれずに声を上げて笑ってしまった。
カウンターで、遥ちゃんがくるりとこちらを振り返った。

「やだ、遥ちゃんがこっち見た。頭下げて!」

私は梶原くんの腕をつかんで、思いきり引っぱった。二人そろって、衝立の陰に身を沈める。

「おい。俺まで隠れることないだろ」
「あるわよ。梶原くん、頭ひとつ大きいんだから。衝立の上から丸見えなの」

小声で言い返して、顔を上げたら、すぐ目の前に梶原くんの顔があった。

近い。
日に焼けた頬に、うっすら剃り残しのひげが見える。目尻の皺は、私の知らないあいだに増えたものだ。自分で引っぱっておいて、今さら離れられない。

「……田所。腕」

言われて初めて、自分がまだ梶原くんの腕をつかんでいることに気がついた。スーツの袖ごしに、硬い腕の感触が手のひらに残っている。

「わ、分かってるわよ」

慌てて手を離し、衝立の格子からそっとカウンターをうかがう。

「……もう前を向いたわよ。大丈夫」

二人で、そろそろと身を起こした。

「……そうか」

座布団に座り直しても、手のひらが妙に熱い。何か話さなければと思って口から出たのは、さっきのカウンターでの二人の話だった。

「そ、そういえば、さっき真壁課長が『航って呼んでもらえませんか』って言ってたでしょう。ああいうのは大事よ。名字から名前に変わった日のことって、女は一生覚えてるんだから」

梶原くんは、グラスを置いて、私を見た。

「……美和」

ビールが、変なところに入った。

「な、何、急に」

咳きこみながら言うと、梶原くんは真顔のまま答えた。

「名前で呼ぶといいんだろ」
「それは、真壁課長の話でしょう!」

おしぼりで口もとを押さえながら、私は梶原くんをにらんだ。
二十二年。この人の口から聞いた私の呼び名は、「田所」だけだった。新人研修の点呼のときも、同期の結婚式の二次会でも、大阪へ発つ前の晩も。

本当に、ビール一杯で酔ったのかしら、この人。

◇

カウンターで真壁課長が椅子の背から遥ちゃんのコートを取り、広げて差し出していた。
遥ちゃんが袖に腕を通す。真壁課長は、その肩越しに何か言いたそうに口を開いた。

「遥さん。あの……」
「何ですか?」
「……いえ、何でもないです」

私は、座卓に突っ伏しそうになった。

「ああもう、真壁課長、そこで黙らないでよ」

あと一歩なのに。言いかけてやめるくらいなら、最初から口を開かないでほしい。

「……あとはね、最後にちゃんと言葉にすること。態度で分かるだろ、なんていうのは男の甘えよ。言わないと、女は一生待つんだから」
「……そんなに待つもんか」
「待つわよ。待ってないふりをしながらね」

格子の向こうで、真壁課長は財布を出しかけて、またしまっている。

「……ほら、真壁課長、まだ黙ってる。大事なところで黙るの、梶原くんそっくり」
「俺?」
「そうよ。入社したときから、ずっとそう」

研修班の仲間の結婚式で、友人代表のスピーチを頼まれたときもそうだった。前の晩に便箋三枚も原稿を書いてきたくせに、マイクの前に立ったら、新郎の顔を見て「……おめでとう」と言っただけで席に戻ってきた。三枚分、何が書いてあったのかは、いまだに誰も知らない。

梶原くんは、グラスを座卓に置いた。
それから、私の顔をまっすぐに見た。

「じゃあ、言う」
「何を?」
「田所。俺と付き合ってくれ」

指から、箸が滑り落ちた。座卓の上で、からんと乾いた音がした。

「……は?」
「だし巻きの大根おろしも、来週の木曜も、東西線も、傘も、イヤリングも、名前も。今日のは全部、お前に教わったとおりにやった」

全部?
いや、でも、確かに……。

好きなものを覚えておいて、本人が言う前に頼む。次の約束は、その日のうちに決める。帰りは同じ方向だと言い張る。大事にしているものを褒める。名前で呼ぶ。

私が衝立の格子をのぞきながら、遥ちゃんたちに向けてしゃべっていたことを、この人は一つ残らず、私に返していたのだ。
だし巻きが運ばれてきたときも、イヤリングを褒められたときも、私はカウンターばかり見ていた。

「ちょっと待って。じゃあ、今日ここに来たのも」
「誘ったのは、お前だ。俺は乗っただけだ」

悔しいけれど、その通りだった。

「……どうして、今なの」

自分の声が、思っていたより小さかった。
梶原くんは、少しだけ視線を落とした。

「十三年前。俺が大阪の駅前の再開発に行けって辞令をもらっただろ。その前の晩、ここでお前と二人で飯を食った」
「……食べたわね。三年で戻るって言ってた」
「ああ。本気でそう思ってた。……あの晩、店の前で別れるとき、俺が何て言ったか覚えてるか」
「……『戻ったら、ちゃんと話す』」

言葉は、何も考えなくても口から出てきた。

◇

十三年前の三月だった。
同期の送別会は前の週に済ませていたのに、出発の前の晩になって、梶原くんから電話がかかってきた。

「最後に、まるやの生姜焼きが食いたい。付き合ってくれ」

二人きりでまるやに来たのは、あの夜が初めてだった。
梶原くんはいつも以上にしゃべらなくて、私は沈黙を埋めるように、同期の誰が結婚するだの、誰が転職を考えているだのと、どうでもいい話をしゃべり続けた。梶原くんは「そうか」と「まあな」だけで、生姜焼きを二人前平らげた。

店を出ると、桜にはまだ早い夜で、裏通りの赤提灯が風に揺れていた。
駅のほうへ歩き出そうとした私を、梶原くんが呼び止めた。

「田所」

振り返ると、梶原くんは暖簾の前に立ったまま、少し困ったような顔をしていた。

「戻ったら、ちゃんと話す」

何を、とは言わなかったし、私も聞かなかった。

「……うん。気をつけてね」

そう返すのがやっとで、私は一人で駅まで歩いた。何を話されるんだろうと、何度も考えながら。考えて、考えて、まさかね、と笑って、また考えた。

次の朝、梶原くんは新幹線で大阪へ発った。
そのまま三年が過ぎたけれど、梶原君は東京へは戻ってこなかった。あっという間に五年が過ぎ、五年が、十年になった。そのあいだに私は経理部で主任になり、係長になり、新人を何人も育てた。同期の結婚式に何度も出て、そのたびに二次会の帰りに一人でラーメンを食べた。

十年ぶりに本社に戻ってきた梶原くんは、部長になっていた。

そのことは、四月一日付の人事異動の一覧で知った。開発部長、梶原修。何十人も並んだ名前の中で、その一行だけを何度も読み返した。
最初に顔を合わせたのは、それから一週間ほどたった朝の、エレベーターホールだった。部下らしい人たちと話しながら歩いてきた梶原くんは、私に気づくと、ほんの少し目を細めた。

「おう、田所。久しぶり」

ちょうど扉が開いて、梶原くんは部下たちと一緒に乗り込んでいった。十年ぶりに聞いた声は、扉が閉まるまでの数秒に収まってしまった。

◇
「……覚えててくれたんだな」

梶原くんの声で、私は座敷に引き戻された。

「忘れるわけないでしょう。三年で帰ってくるって言ってたくせに」
「……悪かった。大阪から戻れると思うたびに、次の工区が始まって」
「知ってるわよ。社内報で何度も見たもの。第二工区の着工、第三工区の着工って」

社内報が配られるたびに、私は不動産事業本部のページを一番先に開いた。現場の集合写真の端っこに、ヘルメットをかぶった大きな体を見つけると、それだけで、その月は少し機嫌がよかった。

「……見てたのか」
「見るわよ。同期なんだから。……でも、十年は長かったわね」
「……ああ」
「それに、帰ってきてからも二年経つわよ。何度も顔を合わせてたのに」

エレベーターで乗り合わせても、社員食堂ですれ違っても、梶原くんは「おう」と片手を上げるだけだった。だから私は、あの夜の言葉は、大阪の十年のあいだにどこかへ置いてきたのだと思うことにしていた。

「戻ったら、お前は後輩の面倒を見て、毎日楽しそうにしてた。今さら何を言うんだって思った」

梶原くんは、空のグラスを指でゆっくり回した。

「……その『ちゃんと話す』は、一生来ないと思ってたわよ」
「さっき、お前が言っただろ。また今度なんて、一生来ないって。俺の『ちゃんと話す』も、それと同じになるところだった」

グラスを回していた指が、止まった。

「だから、今日にした」

私は、何か言わなければと思った。思ったのに、口から出てきたのは、いつもの憎まれ口だった。

「……順番がめちゃくちゃよ。東西線なんて、すぐ嘘だって分かるし」
「……採点は、あとにしてくれ。返事を聞かせてほしい」

梶原くんの耳が、赤くなっていた。日焼けした顔でも分かるくらいに。
四十四歳の、開発部の部長が。
顔が熱い。ビールのせいだと、自分に言い訳できるうちに言ってしまおうと思った。

「……来週の木曜、空いてるって言ったでしょう」

梶原くんが、ふっと笑った。大阪へ発つ前の晩に見た、あの困ったような顔とは違う、肩の力が抜けた笑い方だった。

「……美和」
「だから、急に名前で呼ばないで」
「……嫌か?」
「嫌っていうか……慣れないのよ。二十二年も田所だったんだから」
「じゃあ、これから慣れてくれ」
「……勝手ね、ほんと」

座卓の上に置いていた私の手に、梶原くんの手がそっと重なった。
大きくて、少しざらざらしていて、温かい手だった。

「……ちょっと。何突然、人の手、握ってるのよ」
「嫌なら離す」
「……嫌とは言ってないでしょう」
「……いいってことか」
「……ここ、お店よ」
「衝立の陰だ。誰も見てない」

そのとき、衝立のすぐ向こうで、くすっと笑う声がした。

◇

顔を上げると、衝立の横に、コートを着た遥ちゃんと真壁課長が並んで立っていた。

「……田所さん」

私は、梶原くんの手を振りほどいた。

「は、遥ちゃん!? いつからそこにいたの」
「今、お会計を済ませたところです。……でも、お二人がいらしてるのは、わりと最初から気づいてました。衝立の上に、梶原部長の頭が出てたので」
「部長、すみません。田所さんの声も、カウンターまで全部聞こえてました」

真壁課長が、申し訳なさそうに頭をかいた。
梶原くんが、額に手を当てて聞いた。

「……どこからだ」
「『女はね、ああいうのに弱いのよ』のあたりからです」
「ほとんど最初からじゃない! もう……遥ちゃん、何で黙ってたのよ!」

遥ちゃんは、会社では一度も見せたことのない顔で、にやりと笑った。

「だって、田所さん、楽しそうだったので」
「楽しかったわよ! ……って、そうじゃなくて!」
「ふふ。お邪魔しました」

真壁課長が、梶原くんに向かって軽く頭を下げた。

「部長、お先に失礼します。……遥さん、駅まで送ります」

さっきは、ここで解散にしましょうか、と言っていた人が。
遥ちゃんは一瞬だけ目を丸くして、それから、髪留めのあたりに指をやった。

「……はい。行きましょう、航さん」

からからと引き戸が鳴って、二人の背中が暖簾の向こうへ消えた。
私は、座布団の上で固まっていた。

「……今、航さんって言った!?」
「言ったな」
「ちょっと! そこ、もう一回聞かせてよ!」
「無茶言うな」
「……ああもう、肝心なところを!」

名字から名前に変わった日のことは、一生覚えているものなのに。かわいい後輩の一生ものの瞬間を、私は自分のことで手一杯で、ちゃんと見届けられなかった。

「お前、さっきからずっと見てただろ」
「そうだけど!」

◇

暖簾の揺れがおさまると、座敷には私と梶原くんだけが残った。

「……ビール、まだ残ってるぞ」
「飲むわよ。こんな顔のまま、すぐに外へ出られないでしょう」

梶原くんが、瓶の底に残ったビールを私のグラスに注いだ。泡が、さっきより少しだけ多めに立った。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
厨房から、鍋の蓋が鳴る音と、おかみさんが誰かと電話で話す声が聞こえてくる。カウンターの客はいつの間にか入れ替わっていて、仕事帰りの若いサラリーマンが二人、テレビの野球中継を見上げていた。

不思議と、気まずくはなかった。新人の頃、同期の誰かが先に帰ってしまって、梶原くんと二人で最後のビールを分けたことが何度かあった。あのときも、こんなふうに黙っていた気がする。

「田所さん、梶原くん。ごめんなさいね、そろそろ予約の時間なのよ」

おかみさんが、申し訳なさそうに座敷をのぞいた。

「あ、ごめんなさい。すぐに空けます」

私は慌ててバッグを引き寄せた。

◇

レジの前で、梶原くんが当たり前のように財布を出した。

「ちょっと。割り勘でしょう」

同期とは、必ず割り勘。新人の頃からずっと、それが私の決まりだった。誰かにおごられると、次に会うとき、何となく借りを返さなきゃいけない気がして落ち着かないから。

「今日は、俺が払う」
「そんなの、教えてないわよ」
「二十二年前に聞いた。同期の飲み会で、お前が『最初のデートくらい、男が黙って払いなさいよ』って言ってた」

言った。たしかに、言った覚えがある。入社一年目の夏、この店の座敷で、ビール二杯目くらいの勢いで。誰かがデートで割り勘にされた、とこぼした話に、私が一番怒っていたのだ。

「……そんなことまで、覚えてたの」
「お前の言うことは、昔からよく覚えてる」

梶原くんは、おかみさんから釣り銭を受け取りながら、さらりと言った。

「……もう。そういうこと、さらっと言わないでよ」

今日一日で、何回顔が熱くなったか分からない。四十四にもなって、定食屋のレジの前で。

「来週の木曜は、何が食べたい。店はお前が決めていい」
「……だし巻き卵。ここの、大根おろし多めのやつ」
「またここか。せっかくなら、もう少しいい店でもいいんだぞ」
「いいの、ここで。十三年前の続きなんだから、同じ店じゃないと」

梶原くんは、少しのあいだ私を見て、それから照れたように笑った。

「……そうか。じゃあ、木曜の19時に、ここで待ってる」
「ちょっと待って。今のは、同期のご飯じゃなくて、ちゃんとデートのお誘いってことでいいのよね?」
「……そのつもりで言ったんだが」
「だったら、ちゃんと『デート』って言いなさいよ。最後は言葉にしなさいって、さっき教えたばっかりでしょう」
「……はいはい」
「はいは一回!」

レジの向こうで、おかみさんが肩を揺らして笑っていた。

◇

からからと引き戸を開けると、外はすっかり夜になっていた。
裏通りの赤提灯が、まだ少し冷たい風に揺れている。十三年前のあの夜と、同じ揺れ方だった。

大手町の駅へ向かう道を、二人で並んで歩く。梶原くんの歩幅は大きくて、私は少しだけ早足になる。そのうち、梶原くんのほうが歩幅を縮めてくれた。

地下へ降りる階段の手前で、梶原くんは東西線の案内板のほうへ曲がろうとした。

「梶原くん。田園都市線は、あっちよ」
「知ってる」

梶原くんは、立ち止まりもせずに言った。

「今日は、東西線の気分なんだ」

呆れて、それから、少しだけ笑ってしまった。
――同じ方向かどうかは、関係ない。口実なんだから。

「……改札までよ」
「ああ」

並んで階段を下りながら、私は左の耳の真珠に、そっと指で触れた。
来週の木曜。十九時。まるやの、衝立のある座敷。

手帳に書かなくても、きっと忘れない。

(了)