静かな寝息が、私の胸元で規則正しく刻まれている。
昨夜のあのぎこちないファイティングポーズはどこへやら、私の腕の中にすっぽりと収まって、すやすやと眠る姿はまるで無防備な子犬のようだ。
激しいラウンドを戦い抜いて、私の胸というリングサイドで完全に伸びてしまった挑戦者。
かわいい人。
昨夜の判定は引き分けにしてあげたけれど――実質的には私のTKO勝ちね。
けれど、試合が終わったからといって、私の仕事が終わるわけじゃない。むしろ、ここからが真の縄張り管理。油断も隙も見せないのが、熟練チャンピオンの鉄則よ。
そっと彼の腕から抜け出し、朝のキッチンへ立つ。
まず、身だしなみの武装。
私のイニシャルが端に小さくあしらわれた刺繍入りのハンカチには、ぴんとしたアイロンの熱を当てて折り目をつける。
糊のきいた真っ白なシャツからは、私が仕込んだ上品なフローラの香りが、あの安っぽい柑橘系のコロンなど一瞬で押し流してしまう。
柔らかく、けれど決して消えない主張を放ちながら立ち上る。
外の虫がどれだけ寄ってこようと、この香りの結界を一歩でも跨がせたりしない。
「朝ぐらいはちゃんと食べるのよ。通勤も大変なんだから」
トースターが軽快な音を立てて跳ね上がる。昨夜はヘビー級のハンバーグを詰め込んだけれど、朝はシャキッとしたサラダと、カリカリに焼いた目玉焼き。
あなたの身体を一番よく知っているのは、外の誰でもない、私なんだから。
そして――仕上げの必殺技。
黒い二段重ねの「愛妻弁当」に、隙間なく彩りを詰めていく。
色鮮やかな卵焼き、照りのいい生姜焼き、そして、あの生意気な後輩ちゃんにこれでもかとマウントを取るための、丁寧な飾り切りのリンゴ。
隙間には、あなたがちょっと苦手な緑の砦をぎっしり。
「ん……んん……」
ベッドから、目をこすりながら起きてきた彼が、パジャマの裾を揺らしながらふらふらとキッチンへやってくる。私の後ろからそっと抱きついてきて、まだ眠気の残る声で「おはよう……いい匂い」と私の首筋に鼻を埋める。
ほら、またそうやって無邪気に甘えて。
年下のかわいいあなた。
お人好しで、隙だらけで、だからこそ放っておけない私の所有物。
「あ……ブロッコリーも入ってるの……」
「ちゃんと食べてね。残したら、夜のお仕置きだから」
パチン、と弁当箱の留め具を鳴らす。これを持っていけば、オフィスの誰もが「彼には完璧な妻がいる」と一目で思い知るはずよ。
ふぅ……。
私の愛はね、あなたが思っているよりずっとずっと重いのよ。
ちょうど、私とあなたの年齢差と同じくらいね。



