極東4th

 水中で。

 天を仰いだ早紀の、額に押しあてられる指先。

 ごぼっ。

 彼女の吐き出した空気が、蜃気楼の向こう側の景色を、粉々にしてしまう。

 だが。

 だが、早紀の額に触れる者など――ただ一人。

 何故?

 明確な疑問さえ間に合わないほど速く、指先は円を描いた。

 黒い泡が、早紀の全身を包んだ。

 水の中で鎧になるのは、これが初めて。

 全身から吹き出す黒い魔気の代わりに、水が押し寄せてくる圧迫感。

 そして。

 水よりも大きな質量が、早紀の中に滑り込んだのだ。

 忘れもしない、独特の生々しさ。

 あ。

 何故、泣きそうになったのだろう。

 もう何もかもどうでもよくなって――それこそ自分の命にだって、興味を失っていたというのに。

 自分の隙間を埋められると、満たされた幸せのような錯覚を覚えるのか。

 早紀の戸惑いが落ち着くのを――待ってくれない者がいた。

 白いカーテンが、眼前で砕け散ったのだ。

 美しいほどの、氷の破片の乱舞。

 その舞と共に、赤茶けた濁流が踊る。

 伊瀬の長い髪が、生きもののように水中でうねっていた。

 早紀は、身構えた。

 いや。

 身構えたのは、早紀の中の男。

 魔族の、男。

 あっ。

 早紀は、慌てた。

 確かにここは、伊瀬のテリトリーだ。

 しかし、彼は生身なのだ。

 そんな姿で、この身に挑んでは危険ではないのか。

 この鎧の持ち主が、海族に対して加減するはずがない。

 さっき。

 さっき、確かに彼は早紀を殺そうとした。

 だが彼は、最後まで優しくあろうとしたのだ。

 その伊瀬が。

 顎を上へと上げた。

 遠くの水面を指すように。

 帰れ、と。

 そう言っているのだろうか。

 次の瞬間。

 伊瀬は、水に溶けて――消えてしまった。