翌日の朝食後、アズリアは、庭園の東屋で、ミハエルと向かい合っていた。
白いテーブルクロスの上には、白磁のティーセットと焼き菓子が並べられている。穏やかな朝の日差しが降り注ぎ、庭園の花々が風に揺れていた。
「こうして二人でお茶をするのは、久しぶりですね」
「そうですね」
ミハエルが柔らかな笑みを浮かべて言ったセリフに、アズリアは曖昧に微笑み返す。彼女に記憶がないことは知っているはずなのにと思いつつ、ミハエルにとっては大切な二人の記憶なのだろうとも思えて、否定できなかった。
「どうかしましたか?」
「……いいえ、何でもありません」
「そうですか?」
ミハエルはそれ以上追及せず少し寂しげに笑うと、彼女の前に置かれたティーカップへと視線を落とした。
「せっかくですから、お茶を楽しみましょう。貴女の好きだった茶葉を用意させたんです」
「ありがとうございます」
アズリアはカップを手に取った。ふわりと、紅茶の香りが鼻をくすぐる。一口飲むと華やかな香りが広がり、ほどよい渋みが舌に残った。
「いかがですか?」
「とても美味しいです」
「それはよかった」
微笑んだ彼女に、ミハエルは嬉しそうに微笑んだ。
「貴女とこうして過ごせる時間は、私にとって大切なものです」
「……ミハエル殿下」
「どうかしましたか?」
「私は、以前のことを何も覚えていません。殿下とどのような関係だったのかも」
「ええ、そうでしたね……」
ミハエルは、少し寂しそうに目を伏せた。それから、彼女を見て微笑みを浮かべる。その笑みは寂しそうだとアズリアは思った。
「ですが、無理に思い出す必要はありません。記憶がなくても、これからまた思い出を作っていけばいいのですから」
優しい言葉だった。まるで、彼女のことを心から案じているかのように。
「……はい」
彼女は曖昧に頷き、もう一度カップに口をつける。舌に残った苦味が増した気がする。
と同時に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「……っ」
アズリアは眉を寄せ、カップをテーブルに戻した。
「アズリア?」
「……少し、気分が」
言いかけて、喉が詰まる。息が、うまく吸えない。胸の内側から何かが這い上がってくるような、不快な感覚と共に、指先が冷たくなり、視界がゆっくりと歪んでいく。
「顔色が悪いですね」
ミハエルの声が聞こえる。彼はアズリアを伺うように見ていた。彼女はテーブルに置いたカップへ視線を向ける。
紅茶は、先ほどと何も変わらない。美しい琥珀色をしている。けれど、胸の内の不快感は、じわじわと存在感を増していった。
「アズリア? 大丈夫ですか?」
ミハエルが立ち上がり、その手が、彼女の肩に触れる。
優しく心配そうな声。
それなのに。
ミハエルの口の端は、柔らかく上がっていた。
「どう……して……?」
その表情に、自分が苦しんでいる理由がミハエルにあると、アズリアは理解して。けれど、彼女の身体は限界で、力が抜け、椅子から崩れ落ちそうになる。それを優しく抱き止めたのもミハエルだった。
「大丈夫ですよ。次こそ、幸せにします」
耳元で、彼の声がした。先ほどまでと同じ、優しい声だった。ミハエルは微笑んだまま、彼女の顔を覗き込む。
「眠りなさい、アズリア。今は、もう、頑張らなくてもいいんです」
その言葉の意味を考える余裕はなかった。アズリアの意識は闇に呑まれようとしていた。
(誰か……。……ルキフェル)
——こんな時にも、彼の顔が浮かぶ
「アズリア!」
遠くから、聞き慣れた声が響いた気がした。
次の瞬間、ミハエルの身体が大きく揺れ、ルキフェルがアズリアの体を奪っていた。
「アズリア!」
ルキフェルの歪んだ顔は、もうアズリアには見えない。
「おい! しっかりしろ!」
強く呼びかけられる声だけが、微かに届いていた。頬に触れる手が震えているのも、感じていた。そんな彼に言葉をかけたいのに、瞼一つ動かない。
「……今、助ける」
その声を、ひどく遠くに聞いて。ルキフェルの腕の中で、アズリアの意識が途切れた。
彼女の身体から、少しずつ温もりが失われていく。それを必死に留めながら、ルキフェルは彼女の名を呼ぶ。
「……アズリア?」
返事はない。けれど、まだ間に合うとルキフェルの直感が告げていた。戦場で何度も彼を救ってきた直感だ。彼女を抱き締め、細い糸を手繰るように、ルキフェルは可能性を探す。
もう二度と、手放したくないと思った。
もう二度と、失いたくないと思った。
それなのに彼女を失いかけている。
けれど、それに絶望する時間が惜しい。
傍らには、静かにミハエルが微笑んでいた。
「残念だったね、ルキフェル」
ミハエルは、まるで何事もなかったかのように言った。
「彼女は、貴方を選ぶべきではなかった」
ルキフェルは答えない。ただ、彼女を腕に抱いて、悟られないように気をつけながら、ゆっくりと自身と彼女の力を使う。
「今度こそ、彼女は僕のものにする。結末を変えてみせる」
その言葉を聞きながら、ルキフェルはゆっくりと目を閉じた。
胸の奥に、熱いものが宿っている。これが何なのか、分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
——このまま終わらせるわけにはいかない
「……いいや、何度やっても、俺とアズリアは愛し合う」
低い声が漏れた。ルキフェルは瞳を開いてミハエルを睨め付ける。
「アズリアを、返してもらう」
その瞬間、ルキフェルの内側で何かが弾けた。彼の紫の瞳が、強く輝く。
——世界が、軋んだ
風が止まる。木々の葉が空中で静止し、テーブルの上の紅茶が、カップの中へと逆流する。
——崩れ落ちたアズリアの身体が、ゆっくりと力を取り戻す
「……何を」
ミハエルの表情から、初めて余裕が消えた。
ルキフェルは、彼を見ていなかった。
ただ、腕の中のアズリアだけを見つめる。
「今度こそ、守り切る」
ルキフェルの小さな声に呼応するかのように
——世界が、巻き戻った
アズリアの藍色の双眸が、ゆっくりと開かれる。
「ルキフェル……?」
「あぁ」
「……私は……どうして……?」
「……ひとまず休め。説明は後でする」
その言葉に安心するかのように、アズリアは微笑んで、目を閉じた。それを見届けて、ルキフェルは彼女を抱き上げる。
「これは、どういうことだ!」
「さぁな」
憎々しげに自分を睨むミハエルを置いて、ルキフェルは歩き出した。ミハエルは後を追っては、こなかった。
白いテーブルクロスの上には、白磁のティーセットと焼き菓子が並べられている。穏やかな朝の日差しが降り注ぎ、庭園の花々が風に揺れていた。
「こうして二人でお茶をするのは、久しぶりですね」
「そうですね」
ミハエルが柔らかな笑みを浮かべて言ったセリフに、アズリアは曖昧に微笑み返す。彼女に記憶がないことは知っているはずなのにと思いつつ、ミハエルにとっては大切な二人の記憶なのだろうとも思えて、否定できなかった。
「どうかしましたか?」
「……いいえ、何でもありません」
「そうですか?」
ミハエルはそれ以上追及せず少し寂しげに笑うと、彼女の前に置かれたティーカップへと視線を落とした。
「せっかくですから、お茶を楽しみましょう。貴女の好きだった茶葉を用意させたんです」
「ありがとうございます」
アズリアはカップを手に取った。ふわりと、紅茶の香りが鼻をくすぐる。一口飲むと華やかな香りが広がり、ほどよい渋みが舌に残った。
「いかがですか?」
「とても美味しいです」
「それはよかった」
微笑んだ彼女に、ミハエルは嬉しそうに微笑んだ。
「貴女とこうして過ごせる時間は、私にとって大切なものです」
「……ミハエル殿下」
「どうかしましたか?」
「私は、以前のことを何も覚えていません。殿下とどのような関係だったのかも」
「ええ、そうでしたね……」
ミハエルは、少し寂しそうに目を伏せた。それから、彼女を見て微笑みを浮かべる。その笑みは寂しそうだとアズリアは思った。
「ですが、無理に思い出す必要はありません。記憶がなくても、これからまた思い出を作っていけばいいのですから」
優しい言葉だった。まるで、彼女のことを心から案じているかのように。
「……はい」
彼女は曖昧に頷き、もう一度カップに口をつける。舌に残った苦味が増した気がする。
と同時に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「……っ」
アズリアは眉を寄せ、カップをテーブルに戻した。
「アズリア?」
「……少し、気分が」
言いかけて、喉が詰まる。息が、うまく吸えない。胸の内側から何かが這い上がってくるような、不快な感覚と共に、指先が冷たくなり、視界がゆっくりと歪んでいく。
「顔色が悪いですね」
ミハエルの声が聞こえる。彼はアズリアを伺うように見ていた。彼女はテーブルに置いたカップへ視線を向ける。
紅茶は、先ほどと何も変わらない。美しい琥珀色をしている。けれど、胸の内の不快感は、じわじわと存在感を増していった。
「アズリア? 大丈夫ですか?」
ミハエルが立ち上がり、その手が、彼女の肩に触れる。
優しく心配そうな声。
それなのに。
ミハエルの口の端は、柔らかく上がっていた。
「どう……して……?」
その表情に、自分が苦しんでいる理由がミハエルにあると、アズリアは理解して。けれど、彼女の身体は限界で、力が抜け、椅子から崩れ落ちそうになる。それを優しく抱き止めたのもミハエルだった。
「大丈夫ですよ。次こそ、幸せにします」
耳元で、彼の声がした。先ほどまでと同じ、優しい声だった。ミハエルは微笑んだまま、彼女の顔を覗き込む。
「眠りなさい、アズリア。今は、もう、頑張らなくてもいいんです」
その言葉の意味を考える余裕はなかった。アズリアの意識は闇に呑まれようとしていた。
(誰か……。……ルキフェル)
——こんな時にも、彼の顔が浮かぶ
「アズリア!」
遠くから、聞き慣れた声が響いた気がした。
次の瞬間、ミハエルの身体が大きく揺れ、ルキフェルがアズリアの体を奪っていた。
「アズリア!」
ルキフェルの歪んだ顔は、もうアズリアには見えない。
「おい! しっかりしろ!」
強く呼びかけられる声だけが、微かに届いていた。頬に触れる手が震えているのも、感じていた。そんな彼に言葉をかけたいのに、瞼一つ動かない。
「……今、助ける」
その声を、ひどく遠くに聞いて。ルキフェルの腕の中で、アズリアの意識が途切れた。
彼女の身体から、少しずつ温もりが失われていく。それを必死に留めながら、ルキフェルは彼女の名を呼ぶ。
「……アズリア?」
返事はない。けれど、まだ間に合うとルキフェルの直感が告げていた。戦場で何度も彼を救ってきた直感だ。彼女を抱き締め、細い糸を手繰るように、ルキフェルは可能性を探す。
もう二度と、手放したくないと思った。
もう二度と、失いたくないと思った。
それなのに彼女を失いかけている。
けれど、それに絶望する時間が惜しい。
傍らには、静かにミハエルが微笑んでいた。
「残念だったね、ルキフェル」
ミハエルは、まるで何事もなかったかのように言った。
「彼女は、貴方を選ぶべきではなかった」
ルキフェルは答えない。ただ、彼女を腕に抱いて、悟られないように気をつけながら、ゆっくりと自身と彼女の力を使う。
「今度こそ、彼女は僕のものにする。結末を変えてみせる」
その言葉を聞きながら、ルキフェルはゆっくりと目を閉じた。
胸の奥に、熱いものが宿っている。これが何なのか、分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
——このまま終わらせるわけにはいかない
「……いいや、何度やっても、俺とアズリアは愛し合う」
低い声が漏れた。ルキフェルは瞳を開いてミハエルを睨め付ける。
「アズリアを、返してもらう」
その瞬間、ルキフェルの内側で何かが弾けた。彼の紫の瞳が、強く輝く。
——世界が、軋んだ
風が止まる。木々の葉が空中で静止し、テーブルの上の紅茶が、カップの中へと逆流する。
——崩れ落ちたアズリアの身体が、ゆっくりと力を取り戻す
「……何を」
ミハエルの表情から、初めて余裕が消えた。
ルキフェルは、彼を見ていなかった。
ただ、腕の中のアズリアだけを見つめる。
「今度こそ、守り切る」
ルキフェルの小さな声に呼応するかのように
——世界が、巻き戻った
アズリアの藍色の双眸が、ゆっくりと開かれる。
「ルキフェル……?」
「あぁ」
「……私は……どうして……?」
「……ひとまず休め。説明は後でする」
その言葉に安心するかのように、アズリアは微笑んで、目を閉じた。それを見届けて、ルキフェルは彼女を抱き上げる。
「これは、どういうことだ!」
「さぁな」
憎々しげに自分を睨むミハエルを置いて、ルキフェルは歩き出した。ミハエルは後を追っては、こなかった。



