夕食を終えて与えられた客室へ戻ると、アズリアは早々に寝台へと入った。
明日もルキフェルと庭を歩く約束をしている。
それが楽しみだと思ってしまう自分に戸惑いながらも、アズリアは穏やかな眠りに落ちていった。
慣れない環境で過ごした数日間の疲れが出たのかもしれない。その夜のアズリアは夢も見ずに眠っていた。
静かな客室に、月明かりが差し込んでいた。
寝台の上では、アズリアが小さな寝息を立てていた。
その時、カチャリと扉が開いた。
ゆっくりと開いた扉の向こうから、一人の男が姿を現した。
月明かりを受けて柔らかく光る金の髪に、青空のような瞳——昼間と変わらない、柔らかな笑みを浮かべたミハエルだった。
「……アズリア」
ミハエルは微笑んだまま、寝台に横たわる彼女を見つめた。
「……よかった。起こさずに済みそうです」
静かな声でそう呟き、彼は寝台の傍へ歩み寄る。
ミハエルは目を覚まさないアズリアの頬に触れた。
「……困りましたね、記憶がないなんて」
その声からは、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
——彼女が何も覚えていないのなら、まだしばらく様子を見てもいい
ミハエルがそう考えたのは、ほんの数日前のことだった。
けれど、今日、アズリアはルキフェルの隣で笑っていた。
庭で一緒に過ごし、言葉を交わし、彼の手を受け入れていた。
アズリア自身は気づいていないのかもしれない。けれど、ミハエルにはわかる。彼女は少しずつルキフェルに惹かれ始めている。
「……やっぱり、駄目ですね」
ミハエルは、そっとアズリアの首へと手を伸ばした。
「君が彼を選ぶくらいなら、次へ進んだ方がいい」
彼の指先がアズリアの細い首を捉えようとした、その瞬間——
「何をしている」
地を這うような低い声が、ミハエルの背後から響いた。
ミハエルの手が止まる。
彼がゆっくりと振り返った先に立っていたのは、ルキフェルだった。
「……ルキフェル」
「俺の問いに答えろ、ミハエル」
ルキフェルの声は、どこまでも冷たかった。
昼間、アズリアに向けていた柔らかな声音とはまるで違う。その手には、油断なく剣が握られていた。
ミハエルは一瞬だけ目を細め、それから困ったように笑った。
「こんな夜更けに、どうされたのですか?」
「それはこちらの台詞だ」
「僕はただ、恋人の様子を見に来ただけですよ」
ぬけぬけと言ったミハエルに、ルキフェルが冷たく笑う。
「寝込みを襲うことが、様子を見るというのか」
「……襲うだなんて、人聞きの悪い」
ミハエルは肩をすくめた。その顔には、いつもの穏やかな笑みが貼り付けられていた。
「彼女は俺が保護している。お前が手を出すことは許さない」
「保護、ですか」
ミハエルはアズリアの眠る寝台へと目を向けた。彼女を見つめる瞳に、もはや優しさはなかった。
「……貴方は、彼女がどんな人間なのか、本当にご存じなのですか?」
「何が言いたい」
「彼女は、貴方を不幸にするかもしれませんよ」
ミハエルの声は静かだった。歌うように彼が続ける。
「婚約破棄された令嬢です。貴族社会での評判もある。彼女をそばに置けば、あなたの立場だって危うくなるかもしれない」
ルキフェルは、黙ってミハエルの言葉を聞いていた。悪魔のように囁き、笑うミハエルを、怖じることなくルキフェルは見返す。
「それでも、彼女を守るつもりですか?」
「当然だ」
即答だった。そこに僅かな迷いもない。ルキフェルは、ただ真っ直ぐに睨むようにミハエルを見ていた。
「アズリアは、今度こそ俺が守る」
ミハエルの表情から、貼り付けていた笑みさえ消えた。
「……そうですか。貴方は前の記憶を持っているんですね? ……では、仕方ありません」
冷ややかな声でミハエルが告げる。彼の青い瞳が、月明かりの中で揺らめいた。ミハエルが腰に帯びていた剣を抜き去り、ルキフェルと間合いを詰める。殺す気で繰り出された剣を、ルキフェルの剣が辛うじて止めた。
「……お前」
「貴方を殺してから彼女を殺して、やり直します。大丈夫です、今度こそ、きちんと貴方の記憶も消しますから」
切り結ぶ剣に込められた力は恐ろしいほどだ。そんな中でも、ミハエルは優雅に微笑んだ。
「次こそ、僕が彼女を手に入れる」
「断る!」
ガッとルキフェルの剣がミハエルを押し返した。その勢いを殺せず、ふらついたミハエルの腹をルキフェルが蹴る。
「……ハッ、さすが死神公爵。強いですね。それに比べて、ミハエルの体はダメですね」
膝をつきながらも、笑みを浮かべて苦しげもなくミハエルが言う。その姿が月光の下、揺らめいた。
「……まぁ、時間は、たっぷりあります。今回はこの辺で失礼しますね」
言葉が終わるより早く、ミハエルの姿が掻き消えた。ルキフェルはミハエルの気配が完全に消えたのを確認して剣を収め、寝台へと近づく。
アズリアは、まだ眠っている。
何も知らず、何も気づかず、ただ安らかに。
彼女の寝顔を見つめ、ルキフェルは静かに息を吐いた。
「……危なかったな」
そっと手を伸ばし、彼女の髪に触れた。
「……今度こそ、守る」
小さな声でルキフェルが呟いた誓いは、誰に届くこともなかった。
明日もルキフェルと庭を歩く約束をしている。
それが楽しみだと思ってしまう自分に戸惑いながらも、アズリアは穏やかな眠りに落ちていった。
慣れない環境で過ごした数日間の疲れが出たのかもしれない。その夜のアズリアは夢も見ずに眠っていた。
静かな客室に、月明かりが差し込んでいた。
寝台の上では、アズリアが小さな寝息を立てていた。
その時、カチャリと扉が開いた。
ゆっくりと開いた扉の向こうから、一人の男が姿を現した。
月明かりを受けて柔らかく光る金の髪に、青空のような瞳——昼間と変わらない、柔らかな笑みを浮かべたミハエルだった。
「……アズリア」
ミハエルは微笑んだまま、寝台に横たわる彼女を見つめた。
「……よかった。起こさずに済みそうです」
静かな声でそう呟き、彼は寝台の傍へ歩み寄る。
ミハエルは目を覚まさないアズリアの頬に触れた。
「……困りましたね、記憶がないなんて」
その声からは、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
——彼女が何も覚えていないのなら、まだしばらく様子を見てもいい
ミハエルがそう考えたのは、ほんの数日前のことだった。
けれど、今日、アズリアはルキフェルの隣で笑っていた。
庭で一緒に過ごし、言葉を交わし、彼の手を受け入れていた。
アズリア自身は気づいていないのかもしれない。けれど、ミハエルにはわかる。彼女は少しずつルキフェルに惹かれ始めている。
「……やっぱり、駄目ですね」
ミハエルは、そっとアズリアの首へと手を伸ばした。
「君が彼を選ぶくらいなら、次へ進んだ方がいい」
彼の指先がアズリアの細い首を捉えようとした、その瞬間——
「何をしている」
地を這うような低い声が、ミハエルの背後から響いた。
ミハエルの手が止まる。
彼がゆっくりと振り返った先に立っていたのは、ルキフェルだった。
「……ルキフェル」
「俺の問いに答えろ、ミハエル」
ルキフェルの声は、どこまでも冷たかった。
昼間、アズリアに向けていた柔らかな声音とはまるで違う。その手には、油断なく剣が握られていた。
ミハエルは一瞬だけ目を細め、それから困ったように笑った。
「こんな夜更けに、どうされたのですか?」
「それはこちらの台詞だ」
「僕はただ、恋人の様子を見に来ただけですよ」
ぬけぬけと言ったミハエルに、ルキフェルが冷たく笑う。
「寝込みを襲うことが、様子を見るというのか」
「……襲うだなんて、人聞きの悪い」
ミハエルは肩をすくめた。その顔には、いつもの穏やかな笑みが貼り付けられていた。
「彼女は俺が保護している。お前が手を出すことは許さない」
「保護、ですか」
ミハエルはアズリアの眠る寝台へと目を向けた。彼女を見つめる瞳に、もはや優しさはなかった。
「……貴方は、彼女がどんな人間なのか、本当にご存じなのですか?」
「何が言いたい」
「彼女は、貴方を不幸にするかもしれませんよ」
ミハエルの声は静かだった。歌うように彼が続ける。
「婚約破棄された令嬢です。貴族社会での評判もある。彼女をそばに置けば、あなたの立場だって危うくなるかもしれない」
ルキフェルは、黙ってミハエルの言葉を聞いていた。悪魔のように囁き、笑うミハエルを、怖じることなくルキフェルは見返す。
「それでも、彼女を守るつもりですか?」
「当然だ」
即答だった。そこに僅かな迷いもない。ルキフェルは、ただ真っ直ぐに睨むようにミハエルを見ていた。
「アズリアは、今度こそ俺が守る」
ミハエルの表情から、貼り付けていた笑みさえ消えた。
「……そうですか。貴方は前の記憶を持っているんですね? ……では、仕方ありません」
冷ややかな声でミハエルが告げる。彼の青い瞳が、月明かりの中で揺らめいた。ミハエルが腰に帯びていた剣を抜き去り、ルキフェルと間合いを詰める。殺す気で繰り出された剣を、ルキフェルの剣が辛うじて止めた。
「……お前」
「貴方を殺してから彼女を殺して、やり直します。大丈夫です、今度こそ、きちんと貴方の記憶も消しますから」
切り結ぶ剣に込められた力は恐ろしいほどだ。そんな中でも、ミハエルは優雅に微笑んだ。
「次こそ、僕が彼女を手に入れる」
「断る!」
ガッとルキフェルの剣がミハエルを押し返した。その勢いを殺せず、ふらついたミハエルの腹をルキフェルが蹴る。
「……ハッ、さすが死神公爵。強いですね。それに比べて、ミハエルの体はダメですね」
膝をつきながらも、笑みを浮かべて苦しげもなくミハエルが言う。その姿が月光の下、揺らめいた。
「……まぁ、時間は、たっぷりあります。今回はこの辺で失礼しますね」
言葉が終わるより早く、ミハエルの姿が掻き消えた。ルキフェルはミハエルの気配が完全に消えたのを確認して剣を収め、寝台へと近づく。
アズリアは、まだ眠っている。
何も知らず、何も気づかず、ただ安らかに。
彼女の寝顔を見つめ、ルキフェルは静かに息を吐いた。
「……危なかったな」
そっと手を伸ばし、彼女の髪に触れた。
「……今度こそ、守る」
小さな声でルキフェルが呟いた誓いは、誰に届くこともなかった。



