冷たい水面が君を抱く

 十一月の末。
 京都に冬の足音が聞こえてくる、ある冷え込みの激しい夜だった。屋敷の警備が当主の外出のために一瞬だけ緩んだ。

 尚美は、この数週間の間に食事を削って痩せ細った体を利用し、格子の隙間を抜ける方法を見つけていた。
 彼女は寝巻きの上に一枚のコートを羽織っただけで、裸足で屋敷を抜け出し、向かったのは、月極駐車場。
 
 そこには、前に洋平と逃げた時に使った、あの小さな軽自動車が埃を被ったまま放置されていた。
 震える手で隠し持っていた予備の鍵を差し込む。祈るような気持ちで回したエンジンが、静寂を切り裂いて悲鳴のような咆哮を上げる。
 彼女はアクセルを強く踏み込み、決別を告げるように走り抜けた。

 向かったのは、かつて洋平と逃げた時に通った、あの山道だった。
 その先には、巨大なダムがある。洋平がいつか『水面に映る月が綺麗なんやって』と教えてくれた場所。

 夜のダムは、巨大な獣が横たわっているかのような、不気味な静寂を湛えていた。
 尚美は、震える足で堰堤(えんてい)の端に立った。
 下を見れば、吸い込まれそうなほど深い黒。
 だが、彼女の目には、その黒の中に洋平が笑っている姿が見えていた。

「洋平さん。今、行くからね」

 彼女はフェンスを乗り越え、宙に身を投げた。

 落下する刹那、彼女の脳裏を駆け巡ったのは、あの夏の日のスポーツセンター。
 自動ドアが開き、洋平と目が合った、あの一瞬の永遠。

 ドォォォォン……という、重い衝撃。

 冷たい水が彼女のすべてを奪い、そして同時に、あらゆる苦しみから彼女を解放した。神宮寺という名も、家のしきたりも、父の呪縛も、水底の静寂の中では無意味だった。

 そこは、誰にも邪魔されない、彼女だけの聖域だった。


 翌朝、洋平のもとに警察から一本の電話が入った。

「……ダムで女性の遺体が発見されました。お名前は神宮寺尚美さん。それと彼女の左手の平に油性ペンで何か書かれていまして」

 受話器を持つ洋平の手が震える。
 警察によれば、冷たい水にさらされながらも、そこには滲んだ文字で洋平の携帯電話番号が、そしてその下に震える筆致で『あいしてる』と書き残されていたという。

 万が一、身元不明の遺体として処理されそうになっても、必ず洋平の元へ辿り着くように。
 死してなお、彼女の魂は実家ではなく、洋平の元へ帰りたがっていたのだ。

 一方、警察から遺体安置所に呼び出された父親は、変わり果てた娘の姿を前にしても、涙一つ流さなかった。
 それどころか、手のひらの番号を見るなり、忌々しげに吐き捨てた。

「死んでまで、あんな男と繋がり持とうとするなんて……。どこまで卑しい娘や。神宮寺の血を引く者が、死に際に汚らわしい数字を肌に刻むなんて、一族の末代までの恥やぞ。さっさと洗い流せ! 見てて反吐が出るわ」

 その冷酷な怒号を、遺体安置所の重い扉の外で洋平は聞いていた。不自由になった右手の指を骨が軋むほど強く握りしめる。
 彼女が最期に自分の肌に刻み込んだ、唯一の『繋がり』さえも、この男は踏みにじろうとしている。

————
 洋平は、彼女が身を投げたダムのほとりに立ち、冷たい水面を見つめていた。

「……どうして、僕を置いていったんや。尚美」

 彼の問いに答える者はいない。ただ、風が吹き抜け、水面が小さく波立つだけだ。
悔恨の涙が、水面に落ちて波紋を作る。

 しかし、ふと彼は感じた。吹き抜ける風の中に、あの夏の日の百合の香りが混じっているのを。

「……ああ、そうか」

 彼女は、死を選んだのではない。この残酷で理不尽な世界から、自分たちの『愛』を永遠に守り抜くために、あの水の底を選んだのだ。そこは誰にも汚されることのない二人だけの場所。

 洋平は、水面に向かって静かに呟いた。

「待っててな、尚美。僕がそっちへ行くまで、もう少しだけ時間くれへんかな。君が愛してくれたこの世界を、君の分まで見てから必ず会いに行くから」

 ダムの水面は、冬の朝日を浴びてキラキラと輝き始めた。
 それは、あの日スポーツセンターのプールで見た彼女の瞳の輝きに似ていた。