一命を取り留めた洋平が、病院のベッドで意識を取り戻したのは、それから一週間後のことだった。
通りがかった誰かが、血の海に沈んでいた彼を見つけて救急車を呼んでくれたようだった。
全身を軋ませる激痛よりも、尚美を奪われた喪失感の方が彼を深く傷つけた。あの時の尚美の顔が目に浮かび、悲痛な叫びが耳朶にこびりついて離れない。
彼は退院するや否や、折れた肋骨を庇いながら、京都のあの屋敷へ向かった。しかし、そこには以前にも増して強固な警備が敷かれていた。
「尚美さんに会わせてくれ! 彼女はどないしてるんや!」
門の前で叫ぶ洋平を、家の使用人たちが氷のような眼差しで見下ろした。
「お嬢様はなぁ、お前のことなんて、もう忘れたわ。二度とこの敷居を跨ぐな。次は入院では済まんぞ」
洋平は、屋敷の外壁に沿って、毎日毎日歩き続けた。
どこかに彼女の気配はないか?
彼女の叫びが聞こえてこないか?
しかし、厚い壁の向こう側は、死後の世界のように静まり返っていた。
その頃、尚美は屋敷の最奥にある『開かずの間』に監禁されていた。食事は一日一度、無表情な使用人が運んでくるだけ。窓には鉄格子が嵌められ、空を見ることも叶わない。鉄格子に現れる雀だけが下界との繋がり。そう感じていた。父は毎日、彼女のもとを訪れては、呪詛のような言葉を吐きかけた。
「あの男は、お前の居場所を教える条件で金を受け取って逃げたんや。これがその領収書や」
父が差し出したのは、巧妙に偽造された書類である。
「……嘘。洋平さんは、そんなことせえへん」
父が差し出したのは、巧妙に偽造された書類だけではなかった。
「これを見ても、まだあの男を信じるって言うんか」
父が差し出したのは、洋平が大切にしていたはずの古びた腕時計。そしてあの狭いアパートの鍵だった。
「奴はこれらを置いて、笑って去ったわ。『思い出なんてこの程度のゴミや』と言い捨ててな」
さらに父は、画質の荒い一枚の写真を見せつけてきた。そこには、見知らぬ女と親しげに肩を並べ、札束の入った封筒を手に卑屈な笑みを浮かべる洋平の姿があった。精巧に細工された写真であることなど、極限状態の尚美に見抜けるはずもなかった。
「……やめて。もう、堪忍して……」
尚美は震える手で耳を塞いだが、父の追撃は止まらない。
「奴はお前の身体よりも、神宮寺家が支払う端金を選んだんや。それが、お前が『真実の愛』やと信じ込んだものの正体や。お前は金で買われただけの女に過ぎんかったんやで」
物理的な暴力よりも鋭い言葉の刃が、尚美の心の核を容赦なく叩き潰していく。外部からの情報が一切遮断された閉鎖空間で、彼女の心は次第に蝕まれていった。
洋平の温もり、あの狭いアパートの匂い、二人で食べた焦げた肉じゃが。それらの記憶が、父が提示する”証拠”という名の毒によって、色彩を失っていくのが怖かった。
「洋平さん……。あなたがいない世界は、こんなにも冷たくて、暗いんやね」
彼女は、自分が生きる意味を見失いつつあった。
もし、彼が本当に自分を捨てたのだとしたら……。
あるいは彼が自分のせいで、もうこの世にいないのだとしたら……。
その疑念が、彼女の脳裏に『水』のイメージを浮かび上がらせた。
――スポーツセンターの深い青色の水――
すべてを包み込み、苦しみを溶かしてくれる静寂の世界。
それが、尚美に残された唯一の『出口』に見え始めていた。
通りがかった誰かが、血の海に沈んでいた彼を見つけて救急車を呼んでくれたようだった。
全身を軋ませる激痛よりも、尚美を奪われた喪失感の方が彼を深く傷つけた。あの時の尚美の顔が目に浮かび、悲痛な叫びが耳朶にこびりついて離れない。
彼は退院するや否や、折れた肋骨を庇いながら、京都のあの屋敷へ向かった。しかし、そこには以前にも増して強固な警備が敷かれていた。
「尚美さんに会わせてくれ! 彼女はどないしてるんや!」
門の前で叫ぶ洋平を、家の使用人たちが氷のような眼差しで見下ろした。
「お嬢様はなぁ、お前のことなんて、もう忘れたわ。二度とこの敷居を跨ぐな。次は入院では済まんぞ」
洋平は、屋敷の外壁に沿って、毎日毎日歩き続けた。
どこかに彼女の気配はないか?
彼女の叫びが聞こえてこないか?
しかし、厚い壁の向こう側は、死後の世界のように静まり返っていた。
その頃、尚美は屋敷の最奥にある『開かずの間』に監禁されていた。食事は一日一度、無表情な使用人が運んでくるだけ。窓には鉄格子が嵌められ、空を見ることも叶わない。鉄格子に現れる雀だけが下界との繋がり。そう感じていた。父は毎日、彼女のもとを訪れては、呪詛のような言葉を吐きかけた。
「あの男は、お前の居場所を教える条件で金を受け取って逃げたんや。これがその領収書や」
父が差し出したのは、巧妙に偽造された書類である。
「……嘘。洋平さんは、そんなことせえへん」
父が差し出したのは、巧妙に偽造された書類だけではなかった。
「これを見ても、まだあの男を信じるって言うんか」
父が差し出したのは、洋平が大切にしていたはずの古びた腕時計。そしてあの狭いアパートの鍵だった。
「奴はこれらを置いて、笑って去ったわ。『思い出なんてこの程度のゴミや』と言い捨ててな」
さらに父は、画質の荒い一枚の写真を見せつけてきた。そこには、見知らぬ女と親しげに肩を並べ、札束の入った封筒を手に卑屈な笑みを浮かべる洋平の姿があった。精巧に細工された写真であることなど、極限状態の尚美に見抜けるはずもなかった。
「……やめて。もう、堪忍して……」
尚美は震える手で耳を塞いだが、父の追撃は止まらない。
「奴はお前の身体よりも、神宮寺家が支払う端金を選んだんや。それが、お前が『真実の愛』やと信じ込んだものの正体や。お前は金で買われただけの女に過ぎんかったんやで」
物理的な暴力よりも鋭い言葉の刃が、尚美の心の核を容赦なく叩き潰していく。外部からの情報が一切遮断された閉鎖空間で、彼女の心は次第に蝕まれていった。
洋平の温もり、あの狭いアパートの匂い、二人で食べた焦げた肉じゃが。それらの記憶が、父が提示する”証拠”という名の毒によって、色彩を失っていくのが怖かった。
「洋平さん……。あなたがいない世界は、こんなにも冷たくて、暗いんやね」
彼女は、自分が生きる意味を見失いつつあった。
もし、彼が本当に自分を捨てたのだとしたら……。
あるいは彼が自分のせいで、もうこの世にいないのだとしたら……。
その疑念が、彼女の脳裏に『水』のイメージを浮かび上がらせた。
――スポーツセンターの深い青色の水――
すべてを包み込み、苦しみを溶かしてくれる静寂の世界。
それが、尚美に残された唯一の『出口』に見え始めていた。



