冷たい水面が君を抱く

 十一月の終わり、京都の山間にあるダムは、前夜に降った雨の名残が山肌を濡らし、堰堤の上を吹き抜ける風が、冷え切った空気を容赦なく運んでいる。
 午前六時過ぎ、巡回に来た作業員が湖面を照らしたとき、懐中電灯の先に何かが浮かんでいるのが見えた。最初は流木だと思った。だが、風に揺られて向きを変えたそれに、人間の腕が見えた瞬間、作業員の足が止まった。暗い水面に浮かんでいたのは、一人の若い女性だった。

「……人か? ……うわぁぁぁ、人や。人が浮いとる」

 作業員は、しばらく動くことができなかった。こんな山奥のダムに、なぜ若い女性が一人でいるのか。事故なのか、自らここへ来たのか。それを考えようとしても、目の前の光景が現実のものとは思えなかった。やがて震える手で消防と警察へ連絡を入れたのである。
 
 静まり返っていたダムに複数の車両が駆けつけた。隊員たちが湖岸へ降り、冷たい水の中から女性を引き上げる。濡れた髪が顔に張りつき、白い寝間着の上には薄いコートが掛けられていた。靴は履いていない。まだ若い。顔立ちからして二十代にも見えない。捜査員の一人は、女性の顔を見ながら小さく息を吐いた。

「身元が分かるものは?」

「財布はありません。携帯電話も見つかっていません」

「免許証は?」

「それもありません」

 女性の周囲を調べても、身元を示すものは見つからなかった。少し離れた駐車場には古い軽自動車が一台残されていたが、車内にも名前の分かるものはない。捜査員は車のドアを閉め、湖面へ目を向けた。夜の闇を吸い込んでいた水は、朝の光を少しずつ受け始めている。
 
 その女性は一体どこから来て、何を思ってこの場所へ来たのか。誰かに追われていたのか、それとも自分自身の意思でここへ来たのか。手掛かりがない以上、すべては想像するしかなかった。

「ちょっと待ってください」

 遺体を検分していた警察官が、突然女性の左手を持ち上げた。濡れた手のひらに、黒い文字が残っている。水にさらされたせいで輪郭は滲んでいたが、数字が並んでいることだけは分かった。警察官は顔をしかめ、何度も見直した。紙に書かれた番号ではない。女性自身が、油性ペンのようなもので手のひらへ直接書き込んだらしい。

「これ……電話番号じゃないですかね?」

「電話番号?」

「はい。何度か滲んでいますが、たぶん間違いありません」

 捜査員が番号を読み取り、照会を指示する。その間も、若い警察官は女性の手のひらから目を離さなかった。数字の下に、まだ何か書かれている。最初は水に溶けたインクだと思った。しかし、角度を変えてライトを当てると、数字とは明らかに違う文字の形が浮かび上がった。

「……まだあります」

「何が?」

「文字です」

 警察官が息を呑み、滲んだ文字を一つずつ追っていく。右から左へ読むように残された文字は、決して綺麗なものではなかった。震えた筆跡で、何度も書き直したような跡まで残っている。

「……『あいしてる』と書かれています」

 誰も返事をしなかった。
 冷たい風が堰堤を吹き抜け、女性の濡れた髪をわずかに揺らした。手のひらに残された電話番号と、その下に書かれた『あいしてる』という文字。それは遺書とも、助けを求める言葉とも違う。誰か一人へ向けて、最後まで届けようとした言葉に思えた。
 捜査員は女性の顔へ目を向けたが、もちろん答えは返ってこない。彼女が最後に誰を思い浮かべていたのか、その名前を知る手掛かりは、今のところ手のひらに残された数字だけだった。

「番号の照会、出ました!」

 少し離れた場所から声が飛んできた。捜査員が振り返ると、端末を確認していた男が画面を見つめている。表示された契約者名は、河野洋平。滋賀県に住む青年で、大学を中退したあと、町工場で働いているという。
 住所も確認できた。特別な人物ではない。少なくとも記録の上では、ごく普通の青年だった。だが、身元不明の女性が死の直前に自分の手のひらへ残した番号なら、二人の間に何らかの関係があると考えるのが自然だった。

「河野洋平……この女性と何か関係があるんでしょうか?」

「それを本人に聞くしかないな」

「連絡を入れますか?」

「あぁ、すぐに確認してくれ」

 捜査員はそう答えながら、もう一度女性の左手を見た。『あいしてる』という文字が、朝の薄明かりの中でぼんやりと浮かんでいる。
 
 身元すら分からない女性が、最後に残した相手の名前も、声も、顔も、ここにいる誰も知らない。だが、この女性は、死の直前まで誰かを想っていた。そして、その相手が河野洋平という男らしい。捜査員は無線へ手を伸ばした。湖面では朝日が少しずつ強くなり、黒かった水が淡い青へ変わり始めていた。

———— 
 その頃、河野洋平は古びたアパートの一室で眠っていた。大学を中退してから町工場で日々、働くようになり、朝は早く、帰宅する時間も遅い。狭い部屋には必要最低限の家具しかなく、壁際には仕事着と安全靴が置かれている。
 
 外はまだ薄暗く、冬の冷気が歪んだ窓の隙間から入ってくる。洋平は、枕元の携帯電話が震える音で目を覚ました。画面には見覚えのない番号が表示されている。こんな時間に電話を掛けてくる相手に心当たりはないのだが、仕事先で何か起きたのかと思いながら、洋平は布団の中で数秒迷ったあと、通話ボタンを押した。

「……もしもし」

「河野洋平さんのお電話でしょうか?」

「はぁ。そうですけど。どちら様ですか?」

「京都府警の者です。突然のお電話で申し訳ありません」

「えっ!?」

 一瞬で洋平の眠気が消えてしまう。
 警察から電話が来るような覚えはない。何か事件に巻き込まれたのか、それとも仕事先で事故でも起きたのか。いくつもの可能性が頭を駆け巡る中、電話の向こうから告げられた名前が、洋平の思考を止めてしまった。

「神宮寺尚美さんという女性をご存じですね」

「……」

「河野さん?」

「すみません。もう一度、お願いします」

「神宮寺尚美さんです。ご存じありませんか?」

「……知っています」

 神宮寺尚美。

 その名前を聞いた瞬間、閉じ込めていた記憶が一気に胸の奥から溢れ出す。
 あの日からずっと、尚美がどこかで生きていることだけを願っていた。会えなくてもいい。いつか自由になった彼女と再び会えるなら、それだけでいい。そう思っていた。

「尚美さんが……どうしたんですか」

 電話の向こうで、わずかな沈黙があった。

「今朝、ダムで女性の遺体が発見されました」

 洋平は息を止めた。

「……え?」

「身元の確認が必要です。女性の左手に、河野さんの電話番号と思われる数字が残されていました」

「そんな……、嘘ですよね!?」

「詳しいことは、こちらでもまだ分かっていません。ただ、確認をお願いしたいのです」

 尚美が死んだ。

 そんな言葉を頭の中で繰り返しても、現実として受け止めることができない。屋敷へ連れ戻されてから、彼女の消息は途絶えていた。それでも生きていると信じていた。あの家に閉じ込められているなら、いつか必ず助けに行く。そう考えていた。
 ところが今、警察は尚美の遺体がダムで見つかったと言っている。さらに、彼女の手には自分の電話番号が残されていたと言う。尚美が最後に何を思っていたのか、それを知ることが怖かった。

「……僕が、か、確認します」

「ありがとうございます。署まで来ていただけますか」

「はい」

「場所は……」

 警察官が説明する声を聞きながら、洋平はゆっくり布団から立ち上がる。足元がふらつき、壁へ手をつくと、右手の指に鈍い痛みが走った。
 その負った傷は、今も完全には治っていない。その指を見つめると、あの日の光景が鮮明に蘇る。
 洋平は目を閉じ、胸の奥から込み上げてくるものを必死に押し込める。ここで崩れてしまえば、何も確かめられない。

「……違っててくれ。頼む、人違いであってくれ。頼むから、尚美やないって言ってくれ」

 電話を切ると、部屋には重い静寂が戻った。洋平は上着を取り、震える手で袖を通した。窓の外では冬の朝が始まりかけている。まだ人通りの少ない道路を、新聞配達のバイクが一台だけ走っていく。その何気ない光景が、今の自分には辛い。

 ほんの少し前まで、自分にも普通の朝があった。仕事へ行き、帰って、眠る。尚美のことを考えない日はなかったが、それでも生きていくしかなかった。今、その日常が崩れようとしている。あの女性が尚美なら、自分はもう二度と彼女に会えない。それでも、自分の目で確かめるしかなかった。

「尚美……」

 玄関の扉を開けると、冷たい風が頬を打つ。洋平は何度も何度も繰り返し、人違いであれと願うしかなかった。

———— 
 その頃、山間のダムでは、身元不明だった女性の遺体が静かに搬送されようとしていた。左手には、最後まで消えなかった数字と『あいしてる』の文字が残っている。誰にも知られないまま終わるはずだった一人の女性の人生が、その文字によって、河野洋平という男へ繋がろうとしていた。

 そして、その番号を残した女性が、なぜそこまでして彼へ想いを届けようとしたのだろうか。
 それは、京都の北区にある古びた公共スポーツセンターから始まる。